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目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解する

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月30日
  • 読了時間: 1分

目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解する

 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者は、nāma-rūpa をさまざまな角度で観察しなくてはいけません。高いレベルの精進が欠かせないのです。少々でも心が乱れないようにしなくてはいけません。そこでどんどんやる気ばかり現れてくると、周りが見えなくなります。観察は正しく進まなくなります。悟りに達したという勘違いは起こらないかもしれませんが、「とにかくやればいい」というわけでもないのです。

 もちろん、解脱に達したという勘違いも起こり得ます。解脱者には怠けがありません。怠けを根絶しています。今、自分にも怠けがまったくありません。現れる気配さえもないのです。そこで勘違いしてしまう可能性もないとは言えません。修行者は自分の心に起きているけた違いの精進の力をそのまま確認します。それから、精進は目的ではないと、目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解すれば、この障碍も解決です。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p129】

 
 
 

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