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瞑想に適した場所

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月2日
  • 読了時間: 1分

瞑想に適した場所 Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati, pallaṅkaṃ ābhujitvā, ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya, parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā. 比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、跏趺を組み、身を真直ぐに保ち、前面に念を凝らして坐ります。 そろそろ身体を、身体のままに観察することにしましょう。最初にお釈迦様は、身体とは出息・入息することだ、とするのです。これは当たり前の事実です。生きているという生命は、皆、一貫して吸ったり吐いたりしているのです。それがなくなったら、生きているとは言えないのです。ですから、生きているとは出息・入息だとするのは、客観的な事実です。出息・入息を観察するためには、落ち着いた場所が必要です。ですから、修行者は森に入るか、樹の下で坐るか、空き家・空き地などのところを探さなくてはいけないのです。簡単にいえば、人が入らないところか、入りたがらないところを選ぶのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.54】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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