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瞑想に適した場所

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月2日
  • 読了時間: 1分

瞑想に適した場所 Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati, pallaṅkaṃ ābhujitvā, ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya, parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā. 比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、跏趺を組み、身を真直ぐに保ち、前面に念を凝らして坐ります。 そろそろ身体を、身体のままに観察することにしましょう。最初にお釈迦様は、身体とは出息・入息することだ、とするのです。これは当たり前の事実です。生きているという生命は、皆、一貫して吸ったり吐いたりしているのです。それがなくなったら、生きているとは言えないのです。ですから、生きているとは出息・入息だとするのは、客観的な事実です。出息・入息を観察するためには、落ち着いた場所が必要です。ですから、修行者は森に入るか、樹の下で坐るか、空き家・空き地などのところを探さなくてはいけないのです。簡単にいえば、人が入らないところか、入りたがらないところを選ぶのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.54】

 
 
 

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