top of page
検索

瞑想のステップ

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月23日
  • 読了時間: 1分

瞑想のステップ 行住坐臥などの身体の威儀を観察する瞑想に、他の瞑想と同じ次のステップがあります。それは一、ajjhattaṃ vā kāye 自分の身体について、内なる身体について、身体の威儀に沿って観ながら、確認をしながら生活することです。二、bahiddhā vā kāye 外の身体も同じように観察することです。三、ajjhattabahiddhā vā kāye 自分の身体も他人の身体も同じ行為をしているのだ、という理解で、両方の身体の威儀を観察し続けることです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p75】

 
 
 

最新記事

すべて表示
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 
見清浄に達するために

見清浄に達するために 特別に何もする必要はありません。ただヴィパッサナー実践を続けておこなうだけです。心の成長のためには、何かを繰り返し、繰り返しおこなう必要があるのです。ここで修行者は、気づきの実践を繰り返しおこないます。今までおこなったことがない仕事なので、慣れるまでは大変苦労します。しかし徐々に慣れてくると、心も徐々に成長する。徐々に安らぎを感じられるようになる。 Visuddhi(清浄)と

 
 
 
もしかしたら何かがあるはず、という気持ち

もしかしたら何かがあるはず、という気持ち 我々人間は、神、守護霊、先祖の霊、ただの霊、精霊、山、川、海、水、火、雷、風、聖地、樹木、岩、蛇、馬、ライオン、ワシ、狐、龍、等々の何かを信仰して、何かに頼って、安心感を獲得するのです。存在欲に燃料を供給します。それらは空(から)の安心感ですが、否定する勇気はありません。もしかしたら何かがあるはず、という気持ちは消えません。このような生き方が、見解の網に絡

 
 
 

コメント


bottom of page