top of page
検索

苦行とヨーガ

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月21日
  • 読了時間: 1分

苦行とヨーガ 苦行まがいの修行はいりません。当時インドでは、身体を戒めれば心の汚れがなくなると思っていた修行者たちもいました。彼らは身体を対象にした瞑想として、苦行を推薦したのです。仏教では不自然な、極端的な苦行には反対です。お釈迦様は、人が四六時中行なっている行住坐臥に気づきなさいと説かれるのです。当時のインドの宗教背景から考えると、大胆で革命的な提案です。しかし身体を不自然に動かすことが修行だと思う勘違いは、現在まで続いているのです。不自然な動きによって心が清らかになるという理論は、行住坐臥のような常識的な動きによって心が汚れるという前提から生じています。不自然な動きでいくら心を戒めても、修行者はまた自然な動きに戻らなくてはいけないのです。もし人が、常に行なっている行住坐臥に気づくことによって心の落ち着きと清らかさを得られるならば、それに越したことはないです。ブッダの瞑想方法には優れたポイントが二つあります。一、誰にでも簡単に実行できて、苦行にならないこと。二、獲得する心のやすらぎが、壊れて消えないことです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p73】

 
 
 

最新記事

すべて表示
観察の汚れ:③ 喜pīti

観察の汚れ:③ 喜pīti  修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒

 
 
 
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 

コメント


bottom of page