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衣を纏うとき、鉢を持つとき

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年6月7日
  • 読了時間: 1分

衣を纏うとき、鉢を持つとき Saṅghāṭipattacīvaradhāraṇe という言葉を分析しましょう。お釈迦様の説法の相手は比丘達ですから、「衣を纏うとき、鉢を持つとき、気づいて行なってください」という意味になります。Saṅghāṭi は重衣と言います。布を二重に縫った厚い衣です。Patta は鉢のこと。Cīvara は普通に使っている衣。そういうものをdhāraṇe 着るときは、持つときは、そのときもちゃんと確認しながら、正知(承知)の上でするのです。在家修行者にこのセクションは関係ないと思わないでください。鉢がなくてもカバンなどはあるでしょう。それを持つとき、正知で行なうのです。衣よりは制服は着方が複雑でしょう。そのときも正知で行なうべきです。出家よりも仕事が多くなって大変だと思います。しかし、在家も道場に入って修行する場合は、簡単な修行服に着替えるのです。カバン等の俗世間の道具を使うことをやめるのです。それで出家比丘たちと同じく、修行できるようになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p83】

 
 
 

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