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観察の汚れ:③ 喜pīti

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月20日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:③ 喜pīti

 修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒」にならないのです。なぜならば、否応なしに勝手に喜びが湧いてくるからです。別に依存する必要はないのです。

 しかし、何かに達した気分です。その達した境地から、限りなく喜びが溢れ出すようです。このとき、修行者は「目指す境地はこれではないのか」と思ってしまうのです。「苦がなくなったとは、この状態ではないのか」と思ってしまいます。要するに、悟った気分になってしまうのです。したがって、修行の汚れです。障碍です。他宗教の方々も、宗教体験を得たときはこの喜びを感じたと言います。しかしヴィパッサナー修行者にとっては、一時的な現象であるというふうに見えないのです。自分は普通に瞑想実践しているのに、喜びの波が終わることなく湧いてくる、という経験です。

 ここで修行者は、喜びの波長にも気づきを入れます。実況してみます。今まで経験したことはなかったかもしれませんが、新たな現象として観察します。現象は因縁によって生じるものです。この場合は、集中力と智慧によって、喜びが起きているのです。智慧はなくなりませんが、集中力には波があります。集中力が減ったら、喜びも減って消えたりします。修行の目的は一切の執着を捨てることであって、喜びの波に溺れることではないと理解するのです。これでこの問題は解決です。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p123】

 
 
 

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