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観察の汚れ:⑧ 安住upaṭṭhāna

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月31日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:⑧ 安住upaṭṭhāna

 Upaṭṭhāna とはsati 気づきのことです。長いあいだ気づきの実践をしたので、修行者はそれに慣れています。気づきのプロです。その人に、sati がsamādhi と同じようなはたらきをし始めます。どんな現象が起きても、いとも簡単に気づいて確認するのです。

 山の頂上に立った人には、いとも簡単に、麓にある村や川や田畑、往来の人々などがいっぺんに見えてしまいます。麓にいたときとはわけが違います。修行者には何ごとについても強烈にsati が起こります。自分が意図的に気づきを実践する必要はなくなったのです。Sati なしには自分の心の中で何も起こらない状態になっているのです。

 それがなぜ障碍になるのか、理解しがたいと思います。しかし、気づいただけでは智慧が現れません。ものごとを観察しただけで、科学者にはなりません。仏教用語ではsati と一緒にsampajāna 正知という言葉をペアにしています。正知は定義が難しい単語です。ヴィパッサナー実践を始める人は、気づきの実践として「膨らみ、縮み」等々、言葉で確認します。言葉だけが先に立ってしまうと、修行は空回りになります。「膨らみ」と確認するときは、何に対して「膨らみ」と言うのか、知った方がよいです。この微妙なところを正知と言います。修行が上達しても、正知の機能が必要です。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p129】

 
 
 

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