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観察の汚れ:⑨ 捨upekkhā

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月2日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:⑨ 捨upekkhā

 捨と書きますが、upekkhā は「捨てる」という意味ではありません。冷静にいる、という意味です。修行の初期段階では、それほど冷静にいることはできません。冷静さがなくなると修行は止まるので、修行者は冷静さを保つために結構苦労します。

 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者には、一切の現象が無常・苦・無我に観えています。修行者は仏教徒なので、この三相は真理であると頭で分かっていました。しかし実践の結果、それを発見します。そのときはびっくりします。自分は今まで頭でっかちに無常・苦・無我だと思っていたけれども、内心は(無意識的に)常・楽・我だと思っていたことも発見します。今までの勘違いにびっくりします。しかしさらに観察を続けると、無常・苦・無我とは現象のありのままの状態であると、どんどん心にインプットされていきます。そのときは、何の驚きもありません。冷静にいます。

 このupekkhā は必須条件です。しかしついつい、冷静さが優先になってしまう恐れがあります。人が度を越して冷静になると、どうなると思いますか? 何もしないことになるのです。何かをする必要があるとも思わないのです。冷静です。冷静はありがたいですが、何かをやるべきときは、それをやらなくてはいけないという気持ちが必要です。要するに、冷静さにもほどがあるということかもしれません。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p130】

 
 
 

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