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観察の汚れ:⑥ 確信adhimokkha

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月23日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:⑥ 確信adhimokkha

 心・心所の説明でadhimokkha 勝結という心所に出会いました。何かを認識するときというのは、心がその対象から離れないで対象にくっついている状態です。この状態でなければ認識することができません。

 優れた修行者が経験するadhimokkha という障碍は、心所のadhimokkha とは違います。『清浄道論』では、adhimokkha とはsaddhā のことであると解説します。であるならば、adhimokkha ではなく素直にsaddhā と言えばいい話です。なぜ言葉を変えたのか、説明していません。

 Adhimokkha という心所はすべての生命にあります。その瞬間その瞬間、認識する対象にしがみついて離れないようにしない限り、認識は不可能です。当然、現象は無常で瞬間の寿命しかないので、adhimokkha も瞬間の出来事です。

 Saddhā 信という心所は、すべての生命に起こり得るとは言えません。これは善心所の一つです。Saddhā は普通、信と訳しますが、正しい訳は「確信」です。確信するためには証拠が必要です。証拠を調べている過程で、確信が起こるのです。何かを理解する、何かに納得する場合も、確信が起こり得ます。当然、俗世間の方々にも、さまざまなものについて確信があるのです。

 科学的な事実を発見すると、皆に確信が起こるのです。例えば「地球が丸い」という例を見ましょう。私たちにはそれを直接見た経験はありません。しかし証拠がそろっているので、地球が丸いということについて確信が起きているのです。揺らぎはありません。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p125】

 
 
 

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