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観察の汚れ:④ 軽安passaddhi

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月21日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:④ 軽安passaddhi

 軽安とは、軽いという意味です。落ち着いた、というニュアンスも入っています。真夏に人が道を歩いたとしましょう。暑いし、歩いて身体も疲れているのです。それから、クーラーがついている家に入ります。ソファに座ります。今までの苦しみが消えていきます。落ち着くのです。

 ヴィパッサナー修行は重労働です。集中力を保つことも大変です。身体で痛みを感じます。修行がうまく進まないときは、精神的に悩んだりもします。修行の先が見えない、という不安もあります。ここで、このような問題が、突然、消えます。身体が軽くなります。肉体の重さが消えます。心も軽くなります。修行に対する邪魔がすべて消えた気分になります。言い換えれば、自分という存在が「無」になった気分です。修行する自分が今ここにいるのに無になった状態でいるのです。ここで「目指していたのはこの状態ではないのか」と思ってしまうのです。「悟りに達した聖者たちが、苦を乗り越えたと説かれているのは、まさにこの経験である」と思ってしまうのです。

 ここには執着が現れています。ある一時的な経験を解脱であると勘違いしています。ですから修行に対しては、汚れなのです。障碍です。現象は現象としてありのままに観察して、さらにこの経験が解脱でないと理解しておけば解決します。

 これに似た経験は、他宗教の方々にも現れているはずですが、軽安状態について書かれたところは見つかりません。「無になること」は日本仏教界でもありがたく思われるようですが、ほとんど観念的に無を語っているように見えます。肉体的にも精神的にも、無を経験した話は見当たりません。

 解脱を目指す修行者には、この「神秘体験」も障碍なのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p124】

 
 
 

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