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観智:⑥ 厭離智は自分を丸ごと厭う気持ち

  • sapporobukkyoujuku
  • 10月24日
  • 読了時間: 1分

観智:⑥ 厭離智は自分を丸ごと厭う気持ち  過患智から、厭離智nibbidā-ñāṇa が生まれてきます。Nibbidā とは、嫌うことです。興味を失うことです。諦める気持ちです。価値がないと分かったら、自然に生まれる気持ちです。 喩えで説明します。人が金色のネックレスを持っています。二〇カラットくらいの宝石も付いています。素人なので、百万~二百万円あたりの値打ちがあるものだと思ってそのネックレスを大事にします。いざとなったら、換金することもできると信じています。あるとき、念のために専門家に鑑定してもらいます。専門家が、この金属は金ではなく金メッキだと鑑定します。宝石はうまくできた人工石だと分かります。では鑑定額は? 千円です。そのようにネックレスについて事実を発見したら、持ち主はどんな気持ちになるでしょうか。勝手に妄想していたときの興味はなくなります。執着は薄れます。未練がなくなります。頼りになるものだ、換金できるのだ、という希望も消えてしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p50】

 
 
 

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捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくる 捏造する段階は、どうしようもありません。ネズミの死骸を見て、「ご馳走だ」と捏造することは、カラスにとって問題ではありません。しかし、人間がネズミの死骸を「ご馳走だ」と捏造したら困った結果になります。ですからかならず、捏造はその生命の都合に合わせて、自然に起こります。もし捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくったならば、それは仏教用語で「見解」と言い

 
 
 

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