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足を組んで坐る

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月3日
  • 読了時間: 1分

足を組んで坐る 呼吸瞑想するときは、足を組むことは文化的な習慣でもないような気がします。足を組んで坐る人は、坐るためには自分の身体の力を使わなくてはいけないのです。身体の筋肉と神経が仕事をしなくてはいけないのです。ということは、ある程度で身体が活動状態なのです。足を組んで坐ることは、本当に安定した姿なのです。背筋を伸ばせるし、血液もよく流れるし、脳は活性化するのです。瞑想などの脳を激しくはたらかせる仕事には、適した姿勢なのです。経典には簡単・単純に足を組みなさいとあるだけで、上になるのが左足か右足かは説かれていないのです。手を組むときも、左が上か右が上かは強調しません。ただ足を組んで坐ればいいだけの話です。仏像には、施無畏印、説法印、降魔印、禅定印などなどがあります。仏教を造形で表そうとした芸術家たちの考えです。仏教を実践する人々がその猿真似をしようとするのは、あまりにも無意味でおかしな行為です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.55】

 
 
 

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