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随念と随観

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月17日
  • 読了時間: 1分

随念と随観 随念と随観というのは、二つの瞑想のやり方です。何か決まっている言葉を念じながら、一つの対象に集中してみることが随念anussatiです。サマタ瞑想の仕方です。また、決まっている言葉はなく、その都度その都度、現れる現象に気づいて、適切な言葉をかけて集中することが随観anupassanā です。それはヴィパッサナー瞑想の仕方です。例えば、サマタの呼吸瞑想の場合は、「吸ってます、吐いてます」という言葉を一貫して念じます。ヴィパッサナーの呼吸瞑想の場合は、「吸ってます、吐いてます」か、「膨らんでいる、縮んでいる」か、どちらでもよいです。また、修行する最中にどこかが痛くなったら、それを「痛み」と確認する。寒くなったら「寒気」と確認する。かならず呼吸に集中しなさい、ということではありません。これが、サマタとヴィパッサナーの大きな差です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p31】

 
 
 

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