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集中力が物質からnāma に自然に引っ越しする

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月10日
  • 読了時間: 1分

集中力が物質からnāma に自然に引っ越しする Nāma が一向に分からない、という感じがあっても、構いません。そのときは、よく分かる色のみを観察し続けるようにと、『清浄道論』はアドヴァイスします。そのうち、nāma も勝手に出てきます。勝手に現れてきたら、nāma に集中して確認を続けます。 これは、それほど難しい作業ではありません。修行中、確認する妄想・雑念・怒り・欲・混乱・眠気・怠けなども、結局はnāma なのです。実況中継する修行そのものも、nāma のはたらきです。見る、聴く、嗅ぐなどの行為の場合も、nāma がその認識作用を起こしています。Nāma の発見は決して難しくはありません。ただ自分の集中力が物質からnāma に自然に引っ越しするまで、待つ必要があります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p92】

 
 
 

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