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集中力(気づき)を前面に置く

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月5日
  • 読了時間: 1分

集中力(気づき)を前面に置く 正しく坐って身体はまっすぐにしてから、集中力(気づき)を前面に置く(parimukhaṃ satiṃ)のです。註釈書には、鼻の先に集中することだと記してあります。鼻が長い人は鼻の先、鼻が短い人の場合は空気が上唇に触れるので、そちらに集中するのです。出入息観の場合は、集中するところはサマーディ瞑想をするのか、ヴィパッサナー瞑想するのか、ということによって変えるべきです。大念処経はヴィパッサナー瞑想を教えているのです。ヴィパッサナーとしての出入息観は、理論的に身体の観察にならなくてはいけないのです。ですから、鼻の先ではなく、後ろになったほうが正しいのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.58】

 
 
 

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