top of page
札幌仏教塾
心・法の随観
citte cittаnupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassam, dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno...
sapporobukkyoujuku
4月25日読了時間: 1分
「受・心・法の随観」のあらまし
Vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassam,もろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念を...
sapporobukkyoujuku
4月24日読了時間: 1分
俗世間の生き方
お釈迦様が仰った通りに、身体の動きを客観的に、正知をそなえて観察すると、心には憂い悲しみなどが起こるはずもないのです。このフレーズに loke という言葉があります。「俗世間に対する」という意味です。俗世間の生き方では、必ず欲、怒り、憂い、悲しみなどが起こるのです。お釈迦様...
sapporobukkyoujuku
4月23日読了時間: 1分
効果
Vineyya loke abhijjhādomanassamの意味は「世界における貪欲と憂いを除いて住みます」です。このフレーズも解説する必要があります。身体の動きに気づいて観察すると、その人に他のことを考える余裕はないのです。過去や将来のことを考えて心配したり、妄想にふ...
sapporobukkyoujuku
4月22日読了時間: 1分
正知
Sampajāno の意味は「正知をそなえ」です。たくさんのことを同時にやろうとすると、一つもまともにやったことにはならないのです。全て中途半端なのです。ものごとの理解能力がなくなるのです。何も理解せず、何も発見できず、充分に生きてきました、という実感はなく、人は老いて死ぬ...
sapporobukkyoujuku
4月21日読了時間: 1分
ブッダのことば
Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ,比丘たちよ、ここに比丘は、身において身を観つづけ、熱心に、「正...
sapporobukkyoujuku
4月20日読了時間: 1分
身体の動きに気づく
yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.‘‘Katame cattāro? すなわち、それは四念処です。 四とは何か。Cattāro satipaṭṭhānā と説かれているので、気づきは四種類になります。気づきとは、みな毎日やっていることではないかと思わ...
sapporobukkyoujuku
4月19日読了時間: 1分
道には目的がなければいけない
そこで次に、サティ (sati) の実践によって「nibbānassa sacchikiriyā 涅槃を体得・体験する」という、達すべき目的を示しているのです。現代人は「瞑想すれば精神的に落ち着きます。集中力が上がります。ストレスがなくなります。それで仕事がはかどります」と...
sapporobukkyoujuku
4月18日読了時間: 1分
群盲象を撫でる
生まれつき目が見えない人々の前に、象を連れてきて、「象とはどんな生き物かと説明してくれ」と、その人々に頼みます。身体を触った人にとって、象は山のような存在です。尾っぽを触った人には、ホウキのような存在です。足を撫でた人からすれば臼のような存在です。耳を撫でた人は脱穀に使う箕...
sapporobukkyoujuku
4月17日読了時間: 1分
疑は無数の哲学・宗教をつくる
「今日は何曜日ですか?」という問いの答えは決まっているのです。もし人が、今日は何曜日ですか、と明確に知っているぐらい、「生きるとは何か?」という問いに答えを見つけた場合は、一切の疑がたちまち消えてしまうので当然のことです。...
sapporobukkyoujuku
4月16日読了時間: 1分
正理 (ñāya)で疑が消える
現代人もいまだに魂について議論しています。いまだに誰も、最終的な結論に達していません。これからも、地球上に人間がいる間は、議論が続くだろうと思います。ということは、議論では理に達しない、という証拠なのです。しかし、「地球が丸い」という意見には、異見がありません。最終的な答え...
sapporobukkyoujuku
4月15日読了時間: 1分
世間の「正理」はこうして現れる
「Ñāyassa adhigamāya 正理を得(るための)」。日本語訳では正理と書いています。文字通りそれでいいと思います。Nāya は八聖道でもいいですが、「論理」ということでもあるし、「もののあり方」という意味もある。自分に対する、世間に対する方法というか、システムと...
sapporobukkyoujuku
4月14日読了時間: 1分
痛みの観察で「智慧」を開発する
いつでも痛いわけではなくて、痛みはそれなりの波を打っていることが分かります。さらに進んだらもう一つ分かるのです。そこに心が行くから痛いのであって、そこに心が行かなかったら痛くないのです。分かりやすく言えばその場所を自分が知っているから痛いのであって、知らなかったら痛くはない...
sapporobukkyoujuku
4月13日読了時間: 1分
気持ちいい
我々は、「楽しい」とか「気持ちいい」とか言いますが、この「気持ちいい」ということ自体も痛みなのです。例えばマッサージしてもらうと気持ちいいと感じるでしょう。もともと痛みがあったならば、マッサージを受けて、「ああ気持ちいい」と言うのです。でも本当は、マッサージ自体が痛みなので...
sapporobukkyoujuku
4月12日読了時間: 1分
「痛み」の正体/「痛み」が正体
基本的に、細胞というのは痛みで生きているのです。皆、痛みは消えてほしい、消えてほしいと思うのですけど「それならば死んでください」としか言えません。痛みは消えないのです。なぜならば細胞というのは痛みで生きているので、他の感覚はないからです。楽しい感覚、快楽の感覚は細胞にはない...
sapporobukkyoujuku
4月11日読了時間: 1分
心の明るさは消えません
次のatthaṅgamāyaは「なくす、消える」という意味なのです。だからと言って、「覚った人をぶん殴っても痛くない」ということではありません。身体の痛みはありますが、ただ身体の痛みだけで、精神的には痛みは全くない。愁いと悲泣の場合は乗り越えるのです。外のことですから、それ...
sapporobukkyoujuku
4月10日読了時間: 1分
気づきの実践によって乗り越える
sokapariddava は外に起きる出来事で、dukkhadomanassa というのは自分に起きる出来事で、どちらにしても人間は大変苦しみを味わってしまうのです。良いものではないのです。そういうものによって、人間の幸せ、やすらぎ、心の安定というのは壊れてしまうのです。...
sapporobukkyoujuku
4月9日読了時間: 1分
苦しみと憂いが消える
次に「dukkhadomanassānam atthaṅgamāya 苦しみと憂いが消える」。Dukkha とは身体で感じる普通の苦しみです。Domanassa は心で感じる悲しみ。分析しようとすれば、いくらでも分析できます。先ほどのsokapariddava...
sapporobukkyoujuku
4月8日読了時間: 1分
愁いと悲泣が心に生まれない
地震が起きたらsati を実践する人と、実践しない人には差があるのだということは事実です。実践しなかった人はひどい愁いと悲泣に陥ってもう立ち上がれなくなってしまう。しかし、satiを実践している人は、別に何のこともなく、そのときそのときのやるべきことをやってずうっと生きてい...
sapporobukkyoujuku
4月7日読了時間: 1分
愁いと悲泣を乗り越える
愁いと悲泣を乗り越える 〔目的の〕二番目は、「sokaparidevanaṃ samatikkamāya 愁いと悲泣を乗り越えるために」です。この瞑想をすれば愁いも悲泣も乗り越えられる。しかし、奇跡が起こるということではありません。『Mahāsatipaṭṭhānasutt...
sapporobukkyoujuku
4月6日読了時間: 1分
bottom of page