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札幌仏教塾
解脱に不可欠な戒律
解脱に不可欠な戒律 戒律とは、何かの宗教を信仰する場合に守らなくてはいけない規則であると一般的に知られています。仏教は解脱を目指す教えです。その目的に達するために欠かせない基本的な規則が、仏教の戒律なのです。解脱は、心の成長と智慧の開発によって現れるものです。ですから、仏教の戒律は心理学的な規則であると言っても過言ではありません。戒律を守ることによって、人格向上を目指すのです。 普通の生命は誰でも、感情の衝動で生きています。感情の大本は、無知と渇愛です。貪瞋痴という三つに分けることもありますし、千五百の煩悩だと言うときもあります。この煩悩が、我々を支配し管理しています。煩悩の種類によって、考えたり話したり行為をしたりするのです。ですから、気分次第で生きるのは危険です。何の成長も見込めません。感情に支配されると、理性がはたらかないのです。欲・怒り・嫉妬などの感情が湧いてきたら、人は何の躊躇もなく悪行為をします。悪を犯している人々も、ある程度、知識人です。世間の常識を知っています。しかし、感情に負けるのです。優れた知識人であっても、感情には勝てません
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2025年11月9日読了時間: 2分
七つの清浄
七つの清浄 ヴィパッサナー実践と解脱に関して、理解するべきポイントを項目だけ追ってきました。再び、最初の項目に戻る必要があります。それは七つの清浄です。 修行によって人は、人格的に向上します。心の汚れがなくなっていきます。智慧も徐々に現れてきます。このプロセスが、「七つの清浄」という項目で説かれています。これから詳しく、七つの清浄を解説します。同じ内容を繰り返しているわけではありません。これから本格的に、解脱を目指して修行する意欲を持っている行者がいるとしましょう。その方が解脱というゴールに達するためにどのように努力すればよいのか、という説明です。ですから、具体的に七つの清浄に達する方法を、これから説明することになります。七つの清浄の説明が終わってから、解脱に達するまでの智慧の順番の具体的な説明になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p61】
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2025年11月8日読了時間: 1分
解脱を三種類にしている
解脱を三種類にしている 修行者は実践している過程で、苦に気づいたり、無常に気づいたり、まれに無我に気づいたりもします。しかし修行が最終段階に入ると、無常・苦・無我の一つに集中するのです。いずれに集中するのか、ということは、その個人次第です。無理に、意図的に、一つを選ぶことはできません。ですから修行者は、無常を発見して解脱に達するか、苦を発見して解脱に達するか、無我を発見して解脱に達するか、いずれか一つになります。この差を説明するために、解脱を三種類にしているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p57】
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2025年11月7日読了時間: 1分
無常・苦・無我と無相・無願・空
無常・苦・無我と無相・無願・空 一切の現象の本来の姿は、無常・苦・無我です。真理とは、無常・苦・無我なのです。観察実践しない人々の認識は、合成された現象のみです。しかし、観察実践に成功すると、ありのままに観ることができるようになります。それで初めて、「一切の現象は無常・苦・無我だ」と発見するのです。お釈迦様は、無常・苦・無我を互いに異なった別々の概念としては説かれていません。 お釈迦様の説明の仕方は、次のようなものになります。「ものごとは、決して変わらないものだとするべきでしょうか、常に変わるものだとするべきでしょうか?」と問うと、問われた相手は「変わるものである」と答えます。そこで「変わるもの、一定しないものは、楽だとするべきでしょうか、苦だとするべきでしょうか?」と問えば、相手は「苦」だと答えます。「無常であり苦であるものは、私のアートマンである、私の真我である、これこそが自我であると、認めるべきでしょうか? 無我だとするべきでしょうか?」と問えば、相手は「無我」と答えます。このような対話では、無常・苦・無我とは現象の本来の姿であるということ
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2025年11月6日読了時間: 2分
観察の仕方により三種類
観察の仕方により三種類 解脱はゴールなので、当然一つです。種類の違う複数の解脱がある、という考えは論理的に成り立ちません。 では、それなのになぜここで、空解脱、無相解脱、無願解脱という三種類になっているのか、それを理解する必要があります。これは決して、三種類の解脱がある、という意味ではないのです。実践する修行者の観察の仕方によって、また、「どのように真理を発見するのか?」ということによって、三種類に分けているだけです。喩えで言えば、東京にいる人が大阪へ行く場合に、交通手段として飛行機を使うか、新幹線を使うか、夜行バスに乗るか、という差のようなものです。旅の経験はそれぞれ違いますが、着くところは皆、同じです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p56】
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2025年11月5日読了時間: 1分
涅槃という境地があります
涅槃という境地があります それでも最終解脱について「言葉で語れない」ということは、知識でものごとを理解しようとする人々にとっては曖昧な表現に映るのです。ブッダは曖昧な表現を徹底的に避けます。次のように、弟子たちに「比丘たちよ、涅槃という境地がある」と明確に説かれるところもあります。 比丘たちよ、生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地] がある。比丘たちよ、もしも、その生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地]がなければ、生まれるもの、存るもの、造られたもの、作為されたものにnissaraṇaṃ paññāyatī(出離の智慧)救済はなくなるのです。しかし比丘たちよ、生まれることがない(不生)、……という[境地]があるゆえに、生まれるもの、……に救済があるのです。(ウダーナ八章三経) 大変難しいフレーズですが、意訳してみれば簡単に理解できます。「涅槃という境地があります。涅槃という境地がなかったならば、輪
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2025年11月4日読了時間: 2分
炎の喩え
炎の喩え 解脱を説明した具体的な例を挙げると、「涅槃に入られた聖者はどうなるのか?」という質問に、炎の喩えでお答えになっています。「油と芯があって、炎が燃え続けます。もし油か芯がなくなったら、炎は消えます」と。そのとき、「その炎はどこへ行ったのでしょうか?」と質問されても、それは答えられません。言えるのは、「原因がなくなったから結果もなくなった」ということです。 煩悩があるから、五蘊で生命が構成されて変化し続けるのです。煩悩を完全に断ったところで、五蘊の構成が終了します。生命体として輪廻転生することが終了するのです。 このような説明を聞くと、涅槃とは虚無の境地ではないかと勘違いします。かつて仏教を研究した西洋の学者たちから、「ブッダは生きる苦しみに対して虚無の境地を推薦しているのだ」と言われたこともありました。これはそれほど突飛な意見というわけではありません。お釈迦様の時代にも、「ブッダは虚無を説く人である」との批判を受けたことがありました。お釈迦様はその批判に、「私は一切の煩悩の断滅を推薦するから、虚無主義者だと言われても構わない」とユーモア的
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2025年11月3日読了時間: 1分
解脱の説明は、間接的
解脱の説明は、間接的 お釈迦様が説かれた解脱の説明は、間接的です。例えば、“一切の苦しみを乗り越えた境地”、“生死を乗り越えた境地”、“超越した境地”、“不死なる境地”などと説明されています。また、否定形の形容詞で語られた言葉もたくさんあります。“不貪不瞋不痴の境地”、“輪廻転生しない境地”、“再び生まれない境地”、“不生不死の境地”などです。否定形の形容詞は、解脱について、分かったような分からないような気にさせます。なぜならば、そこで否定されている無常・苦・生・死・貪瞋痴・煩悩などは一般常識で理解できるからです。それらの否定なので、分かったような分からないような気がするのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p55】
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2025年11月2日読了時間: 1分
三つの解脱
三つの解脱 仏教とは、解脱という最終目的を目指して実践する教えです。お釈迦様は「解脱(涅槃)という境地について、概念を用いて語ることはできません」と、おっしゃっています。何でも論理的かつ明確に説かれるお釈迦様が、解脱とはどういうものかについて説明しなかったのは、解脱という境地は神秘的なものであると言うためではありません。解脱という境地は生命の理解能力範囲を超えています。概念の範囲を超えています。ですから、解脱の状況を説明する言語は存在しないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p54】
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2025年11月1日読了時間: 1分
観智:⑩ 随順する智
観智:⑩ 随順する智 次に、anuloma-ñāṇa 随順智が生まれるのです。何に随順しているのでしょうか。解脱に随順するのです。 ヘリの喩えで理解できると思います。山火事に囲まれていたときは、恐怖のどん底でした。ヘリが見えたところで、期待が生まれてきました。落ち着きました。ヘリはよいところで静止して、縄ばしごも下りてきます。山火事に囲まれていた人の気持ちは、もう山火事のことに向いていないのです。ヘリに乗ること、安全な場所に行くことに向いています。興味は救出後の場所にあり、すでに山火事は全然怖くありません。実際は今も山火事に囲まれた状態です。しかし、完全に安心した気持ちでいますし、助かるという自信もあります。恐怖感はすべて消えているのです。 ヴィパッサナー実践をする修行者も、⑨行捨智で落ち着きを得て、⑩随順智で解脱に随順した安心感に達するのです。これも智慧と言います。なぜならば、心のレベルが変わったからです。そして次の瞬間に、解脱に達するのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p53】
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2025年10月31日読了時間: 1分
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑵
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑵ ヴィパッサナー瞑想とは、かなり激しい実践方法です。落ち着いてできるものではないのです。必要な智慧が現れて、心が本格的に解脱へ向いてから、落ち着きの訓練になるのです。その落ち着きに達したら、saṅkhāra-upekkhā-ñāṇa 行捨智と言います。Saṅkhāra は行ですが、この場合は解脱に達するために必要とする条件(三十七菩提分法)のことです。Upekkhā とは、「捨」と訳しますが、この場合は善心所の力のバランスを平等に整えることを意味します。Ñāṇa は智慧です。 もう一度、山火事の話に戻りましょう。ヘリが来ました。自分は安全なところにヘリをガイドしました。縄ばしごも下りてきます。自分は身の安全を図ってしっかりとはしごを昇る準備をして、構えています。行捨智とは、そのような段階です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p53】
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2025年10月30日読了時間: 1分
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑴
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑴ 次に、saṅkhāra-upekkhā-ñāṇa 行捨智が生まれます。すべての行・ものごとについて、捨の気持ち、喜ぶこともなく嫌うこともなく、捨の、平安な気持ちが生まれてきます。 ヴィパッサナー実践をする人々は、七覚支を完成しなくてはいけないのです。また瞑想に必要な条件として、五力、四神足などなど、三十七菩提分法があるのです。それらは基本的な観察瞑想を続けると、徐々に成長していきます。 個人差もあります。必要な条件の成長は、バラバラです。最後に必要な条件をすべて完成して、うまく精神的にバランスを整えなくてはいけないのです。一般的に言えば、極力落ち着くことの訓練をするのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p53】
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2025年10月29日読了時間: 1分
観智:⑧ 省察智は思惟智に似ている
観智:⑧ 省察智は思惟智に似ている 心が解脱の方向へ向いたら、ある程度の落ち着きが起こります。ヴィパッサナーの智慧が現れていく過程で、心が激しいインパクトを受けるのです。未だかつてなかった真理が観えてくるので、インパクトが強いのです。④怖畏智が現れてくると、道場から逃げ出したい気分にまでなるものです。そのとき、指導する方々は、修行者をよく守って、励ましてあげます。 ⑤過患智、⑥厭離智までは、一切の現象は完全に危険で悪いものに観えても、どうすればよいのかという答えもなかったのです。そこで ⑦脱欲智が現れます。勢いよく広がりつつある山火事に人が包囲されていたとしましょう。逃げ場がないのです。死ぬことを覚悟して、怯えなくてはいけないのです。そのときは心が落ち着かないでしょう。 極端に危険な状態に陥ったそのとき、空からヘリが飛んできて縄ばしごが下りてきたとしましょう。もう安全ですね。ある程度、落ち着きます。⑧Paṭisaṅkhā-ñāṇa 省察智はこのような状態です。 だからといって、ヘリから縄ばしごが下りるだけで、問題は解決しません。自分がもう一度、周
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2025年10月28日読了時間: 2分
生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」
生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」 修行するときは、「解脱」という言葉で頭を悩ませることはしません。「妄想してはいけない」と叱られる結果になります。生きるとは何かと観察させているのです。この観察が完了して、智慧が現れているのです。生きることは無価値です。生きることに未練はなくなりました。俗世間は完全に処分するべきゴミのように、山火事に包囲されたように、感じているのです。このように、生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」こそが、本物です。この時点までくると、解脱したいという「気持ち」ではありません。解脱するより他の方法はない、という発見であり、智慧なのです。 心理学的に説明すると、次のようになります。心は今まで俗世間の方を見て観察していました。ここへきて俗世間の観察は完了して、未練も消えたのです。そこで心の向きが一八〇度変わります。世間向けの心が、出世間向けになるのです。何の躊躇もなく、一切を捨てられる心境になっているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p51】
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2025年10月27日読了時間: 1分
観智:⑦ 脱欲智は解脱したい気持ち
観智:⑦ 脱欲智は解脱したい気持ち 次に、脱欲智muccitukamyatā-ñāṇa(muñcitukamyatā-ñāṇa)です。解脱したいという気持ちが生まれるのです。そう言うと、疑問が起こりますね。「最初から『解脱したい』という気持ちでヴィパッサナー実践を始めたのではないでしょうか?」という疑問です。簡単に言えば、修行を始めるときの「解脱に達したい」という気持ちは、本物ではなかったということです。今度は本気です。優柔不断も曖昧さもなく、覚悟しているのです。 仏教を学ぶ誰もが、お釈迦様が解脱を推薦しているのだ、涅槃に達すべきと説かれるのだ、と知っています。しかし、その境地をかならず自分も経験しなくてはいけない、というところまではいきません。「ブッダの教えにはまったく偽りがないので、涅槃という境地も本当かもしれません」という程度の理解です。深く仏教を学んで、実践に励む意欲を起こした人々は、解脱に達したいと思います。その気持ちは、「涅槃は究極な安らぎである」というお釈迦様の言葉に頼って起きたものです。何かを分かったわけではないのです。【アルボム
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2025年10月26日読了時間: 1分
根本的な衝動が薄れていく
根本的な衝動が薄れていく ヴィパッサナー実践をすると、生きることの本当の姿がバレます。無上の価値あるものではなく、無価値であると発見します。そのとき起こる我が身に対する気持ちの変化を、厭離智と言うのです。 修行者の心に現れる各智慧によって、人格も変わるのです。過患智では、「命は尊い」という錯覚がなくなります。執着も薄れます。すべての生命は、生き続けなくてはならない、という切迫感で必死です。生命は誰でも、何としてでも生き続けたいと思っているのです。生きることで何を得るのかも分からない。なぜ生きるのかも分からない。ただ生き続けたいと思っているのです。これは無知と言います。 過患智が現れたら、生きることが無価値であると発見します。厭離智が現れたら、何としてでも生き続けなくてはいけない、という衝動は消えます。これは大変な人格向上なのです。一切の生命が持っている、根本的な衝動が薄れていく段階です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p50】
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2025年10月25日読了時間: 1分
観智:⑥ 厭離智は自分を丸ごと厭う気持ち
観智:⑥ 厭離智は自分を丸ごと厭う気持ち 過患智から、厭離智nibbidā-ñāṇa が生まれてきます。Nibbidā とは、嫌うことです。興味を失うことです。諦める気持ちです。価値がないと分かったら、自然に生まれる気持ちです。 喩えで説明します。人が金色のネックレスを持っています。二〇カラットくらいの宝石も付いています。素人なので、百万~二百万円あたりの値打ちがあるものだと思ってそのネックレスを大事にします。いざとなったら、換金することもできると信じています。あるとき、念のために専門家に鑑定してもらいます。専門家が、この金属は金ではなく金メッキだと鑑定します。宝石はうまくできた人工石だと分かります。では鑑定額は? 千円です。そのようにネックレスについて事実を発見したら、持ち主はどんな気持ちになるでしょうか。勝手に妄想していたときの興味はなくなります。執着は薄れます。未練がなくなります。頼りになるものだ、換金できるのだ、という希望も消えてしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p50】
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2025年10月24日読了時間: 1分
vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤
vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤ ヴィパッサナー実践をする修行者は、まず客観的に観察して、生きるとは何かとデータを集めます。そして ①思惟智が現れます。命とは生滅している流れである、と発見します。次に ②生滅智が現れます。現象は派手に壊れるものである、と発見します。次に ③壊滅智が現れます。今まで生きることに喜びを感じましたが、今度は生きることに対して、恐怖を感じるのです。そして ④怖畏智が現れます。 ⑤結論として、命には何の価値もない、と発見します。「生きていきたい」という執着がある限り、苦しみの虜になってしまう、と発見します。分かりやすく俗っぽく言えば、生きるとはろくでもないことだ、と発見することです。しかしこれは、品のない言葉ではありません。超越した智慧なのです。何にも、何の価値も成り立たない、と発見することです。これは無価値論だと言うべきところです。過患智とは、偏見で長所を無視して、短所だけ取り上げるやり方ではないのです。無常たるものには、価値は成り立たない、という智慧のことです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学
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2025年10月23日読了時間: 1分
命は儚い
命は儚い 命には無上の価値があるとしっかり信じてはいるものの、同時に「死ぬのは怖い」とも思っているのです。命に無上の価値があるといって強烈に執着していますが、現実は違います。命は儚いものです。あっけなく死にます。苦労して、やっと命を繋いでいるだけです。それを頭では理解することができます。しかし、気持ちは変わりません。 命には無上の価値があるという錯覚と、命はあっけなく壊れる儚いものであるという現実が、頭の中で混乱状態をつくります。気持ちと現実は正反対です。心の中で常に対立が起きているのです。この葛藤は耐えがたいものです。それで心は暴走し始めます。さまざまな妄想概念をつくって、葛藤を沈静化しようとするのです。これはそう難しい話ではありません。「身体が壊れても、魂は不滅です」「人は死後、天界に生まれます」「永遠不滅の天界があります」「人間とは、慈悲深き全知全能の偉大なる神様の作品です」「人間のことを神様は無条件で愛しています」「人々は神に守られています」などということは、よく聞く話でしょう。こうした言葉は一つとして、立証されたわけでも、理解して経験し
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2025年10月22日読了時間: 2分
観智:⑤ 過患智は無価値の発見
観智:⑤ 過患智は無価値の発見 次の智慧は、過患智ādīnava-ñāṇa です。Ādīnava というのは、disadvantage ということで、「悪いところだけを見る」ということです。ものには長所と短所の両方がありますが、短所だけ見えてしまうということです。「ものごとに長所も短所もあるのだから、あえて短所だけ取り出すことは、悲観主義者のやり方ではないでしょうか? 偏見ではないでしょうか?」そう思うのは、偏見を持っている俗世間の人間です。人間の生き方は、それとは違います。皆、自分の命に、この上ない価値があるという前提で生きているのです。 命に価値があると証明したわけではないし、調べたこともありません。ただの気持ちです。本能として、その気持ちがあるのです。「命には無上の価値がある」という錯覚がなければ、生きていられないのです。そう信じなければ、苦労を無視して生きることにがんばることができないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p48】
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2025年10月21日読了時間: 1分
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