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札幌仏教塾
いい加減でも突然でも原因なしでもない
いい加減でも突然でも原因なしでもない 指導する人々は、「直接原因と直接結果を確認するように」と、アドヴァイスしています。これを実践すると、何を発見するのでしょうか。すべての現象は、瞬間で消える無常なるものですが、現象はいい加減に無作為的に起こるのではありません。突然起こるものでもありません。原因なしに起こるものでもありません。決まったパターンがあって、変化していくのです。この決まったパターンとは、公式的にいうと因縁法則なのです。身体の変化、感覚の変化、心の変化、感情(煩悩)の変化も、同じパターンでラベリングします。今まで捏造ばかりして生きてきた、幻覚的な世界が壊れていきます。「A が起きたら次はB に決まっているのだ」という因縁法則を、さまざまな現象に当てはめて発見します。これがアビダンマ・テキストに出てくる「名色の縁(因縁)を把握すること」です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p107】
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2月13日読了時間: 1分
膨らみ・縮みはたくさんの変化の流れ
膨らみ・縮みはたくさんの変化の流れ 具体的にいえば、「膨らみ」と確認したならば、次に「縮み」と確認せざるを得ないのです。しかし、これだけでは経験が足りません。膨らみとは、たくさんの変化の流れです。分かりやすく言うと、生・住・滅という三つのステップがあります。たくさんの現象の変化の過程で、大雑把に「膨らみ」という現象が起きます。膨らみが終わったら、たちまち「縮み」が起こるのではないのです。膨らんだ感覚はそこで消えて、瞬間停止してまったく正反対の感覚の流れがじわじわとスタートするのです。このやり方で、心の変化についても実践してみます。どんな現象をラベリングしても、「A という現象が起きたらB という現象が次に起きます」という公式を発見できます。 【アルボムッレ・ スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p107】
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2月12日読了時間: 1分
現象が「原因と結果」という関係に観えてくる
現象が「原因と結果」という関係に観えてくる 次に、ラベリングする現象が「原因と結果」という関係に観えてきます。現象はいい加減に、無作為的に起こるものではありません。「先が分からない」という言葉は一般的に言いますが、実は何か法則があるようです。先が分からないのは、途切れることなく継続する時間の流れを無視したときだけです。今の自分の生き方が一年後どうなるのかと妄想しても、決して分かったものではありません。それは予測できるものではありません。あいだの時間を無視しているからです。 初心者レベルのヴィパッサナー実践者の経験から説明しましょう。まず「左足、上げます」と実況中継するとします。そのときには、その人が次にやるべきことは決まっています。それは、「左足を運びます」です。その次の瞬間はもうお分かりでしょう。「左足を下ろします」です。面白いことに、一つの現象が現れたら、次の現象はほとんど分かったものになるのです。このやり方を、集中力が上がるたびさまざまな現象に当てはめてみなくてはなりません。そのような経験を増やしていくと、A という現象が生じたら、次にB
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2月11日読了時間: 2分
現象がnāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのが見清浄
現象がnāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのが見清浄 ここで修行者は、すべての現象をnāma とrūpaに分離して観ることになります。わざわざそうしなくてはいけない、という妄想を活かして無理にやっているのではなく、自然にnāma とrūpa に分離することになるのです。集中力が上がれば上がるほど、ラベリングをするべき現象の種類が少なくなっていきます。集中力が上がると同時に、現象の種類も増えていくなら、これ以上はできない、という能力の壁にぶつかります。ヴィパッサナーでは、このような問題は起きません。集中力があると、多数多種類だった現象が、nāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのです。集中力は壊れることなく、実践が着々と進みます。このあたりまで進むと、見清浄という智慧が現れています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p106】
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2月10日読了時間: 1分
身体の次に感覚、その次に心の変化
身体の次に感覚、その次に心の変化 修行者には大変な仕事が現れてきます。まず、身体の動きを確認しなくてはいけない。それはできるようになりました。次に、感覚の変化も確認しなくてはならない。最初は多種類の感覚があるように思われて、やる気まで失うかもしれませんが、実際にやってみると感覚の種類はそれほどないと発見します。修行者を助けるために、お釈迦様が感覚を苦・楽・不苦不楽という三つに分けています。これを発見すれば、感覚の変化に際しても、ラベリング上手になります。その次に出てくる仕事は、心の変化をラベリングすることです。最初はお手上げです。あまりにも速いのです。しかし、ラベリングしなくてはいけません。この作業もスムーズに進むように、お釈迦様が助けてくれます。心に対してどのように気づきを実践するべきか、具体的に説かれています。必要なラベリングは何か、お釈迦様が教えているのです(『念処経』の心隋観の部を参考にしてください)。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p105】
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2月9日読了時間: 1分
感覚の変化だけではなく、一緒に心も変化して流れる
感覚の変化だけではなく、一緒に心も変化して流れる 瞑想の敵は、雑念・思考・妄想です。それが入ると、確認作業はできなくなります。修行者はギリギリまで、雑念・思考・妄想が現れないように努力します。雑念の割り込みが少なくなればなるほど、感覚変化がくっきりと分かってきます。そこまでできたら、さらに集中力を上げて明確にラベリングしなくてはいけません。思考・妄想の割り込みが、さらに減るように精進しなくてはいけないのです。そのときは、感覚の変化だけではなく、一緒に心も変化して流れることが観えてきます。心の変化も言葉で確認しなくてはいけません。とはいっても、実際にやってみると、言葉で確認できないほど速く心が変化するということを発見します。それでも言葉で確認することを推薦します。なぜかというと、現象がいくら速く起きても、ラベリングしようとすると雑念・妄想に割り込む隙間がなくなるからです。修行者が、「雑念が出てこない」と思ってしまうほど、雑念・妄想の割り込みが少なくなるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p10
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2月8日読了時間: 1分
直前と直後の因縁
直前と直後の因縁 ヴィパッサナー実践とは、今の瞬間の身体の感覚を確認することから始まります。「今の瞬間」というのは理解しがたいので、歩く・立つ・座る、という三つの行動をおこないつつ、そのときの身体の動きを確認します。確認作業を失敗なくおこなうために、「実況中継する」というやり方を取り入れたのです。別な言葉でいえば、感覚にラベリングします。そこまではみなさん方もよく知っています。 ラベリングはふだんおこなわないことですから、慣れるまでには時間がかかります。慣れてきたら、身体の動きを確認するときは、身体の感覚変化も明確に分かってきます。それから感覚をラベリングすることにするのです。例えば「左足を上げます」とラベリングする場合は、修行者の集中力は上がる左足の感覚変化につくのです。足を上げる、運ぶ、降ろす、とは物質の動きなので、結構遅く起こります。しかし集中力が感覚についたら、感覚の変化は確認できそうもない速さで起こることを発見するでしょう。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p104
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2月7日読了時間: 1分
苦を乗り越えるための因縁関係なら発見できる
苦を乗り越えるための因縁関係なら発見できる 多次元的で発見しがたいという因縁関係を、私たち一般の修行者たちに発見できるものなのでしょうか? 人はすべてを知る必要はありません。自分にとって必要なもの、欠かせないものを知れば充分です。人は生きる苦しみを乗り越えなくてはいけません。そのために智慧を開発しなくてはいけないのです。智慧は順番に現れるものです。苦を乗り越えるために欠かせない因縁関係なら、発見できます。宇宙はどう現れたのか、どのように、いつ消えるのか、などは管轄外の話です。私の苦しみはなぜ生まれるのか、その苦しみはどのようにすればなくせるのか、ということが自分にとっては何よりも大切な問題です。これからそれに関わる因縁関係の発見の仕方を説明します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p104】
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2月6日読了時間: 1分
因縁関係を発見すると一切の疑が消える
因縁関係を発見すると一切の疑が消える すべての現象のありさまは、因縁法則で理解できます。すべての現象は因縁により生じ、因縁により滅します。神がいるか否か、魂があるか否か、死後があるか否か、人間の運命は定まっているか不確定か、業のはたらきはあるか否か、生命はいつ現れたのか、などなど無数無限の問題があります。これら一つにでも納得のいく答えを出すことは誰にもできません。答えの形をとった曖昧な意見ばかりです。この状況は、疑という煩悩が繁殖するのに適した豊かな土壌です。前述のような質問はすべて、線形的な思考です。それも時間の流れを無視して考えています。一切の現象は因縁により生じ、因縁により消えるのだというのが正解です。残念ながらこの法則を発見するのは、人間にとって難しいことです。 しかし科学者は力ある限りがんばって、物質の因縁関係を探しています。たくさんの関係を発見していますが、まだ終わっていません。これからも新たな因縁関係を発見することでしょう。心の因縁関係に立ち入る余裕はないのです。心の存在さえも、まだ科学的に証明されていません。結論は、因縁関係を
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2月5日読了時間: 2分
因縁は多次元的な関係
因縁は多次元的な関係 因縁関係は線形的にも並列的にも起こります。例えば、部屋で本を読むことができます。光が原因で本が見えます。この場合は線形的な関係ではないのです。まず光があって、光が消えて、それから本が見えるわけではありません。光はありつつ、です。その原因で本が見えつつ、です。並列的な関係を考えると、それは一つに限定されません。並列的な関係がいくらでもあり得ます。本を読むというケースを見ると、光があること、静かであること、本の内容が面白いこと、それを自分が理解できること、自分に時間があること、などなど、いくらでも挙げられます。 因縁とその結果の関係は線形的なものに限らない、並列的な関係もある、とするならば、因縁関係は一次元でも二次元でも三次元でもなく、多次元なものです。因縁の線形的な関係さえも大いに間違ってしまう人間にとって、因縁の多次元的な関係の理解など想像を絶したものでしょう。お釈迦様も悟りを開いてまもなく、人間に真理を語るのは止めた方がよいと考えられたようです。そのときも、因縁法則は理解しがたいと、明確におっしゃっています。...
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2月4日読了時間: 1分
人生の中で親との関わりは取るに足らないほど短い
人生の中で親との関わりは取るに足らないほど短い ある四十五歳くらいの人が、私にこう言いました。「小さいとき、父親があまりにも厳しかったのです。それで私は、何の自信も持てない人間になってしまいました。今の仕事もうまくいかなくてトラブルばかりです。その原因は父親の厳しい態度だと思います」。本人は正しい考えだと思っていたのですが、これは完全な勘違いです。父親から離れて一人暮らしをした、ほぼ三十年の年月の変化を無視しています。厳しい父親も、二十四時間厳しいわけではありません。赤ちゃんのときは、まったく厳しくありません。厳しく対応するのは、母親の話を無視してわがままで、いたずらばかりする時期だけです。もしかすると十二歳から十八歳まででしょう。それも毎日ではないのです。何か悪さをしたときだけです。そのように考えると、その人の人生の中で父親との関わりは、取るに足らないほど短いものです。しかし因果の線形的な関係を誤って理解して、父親に対して恨みをいだいています。自分が独立してどのように生きてきたか、というのは計算に入っていないのです。 【アルボムッレ・..
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2月3日読了時間: 1分
卵からニワトリは生まれません
卵からニワトリは生まれません 人間には線形的な思考は簡単に理解できます。ですが多次元的な関係になると、分からなくなります。因と果の関係は線形的に言えばいたって簡単な教えだと理解してしまいます。ニワトリから卵が生まれると言えば、分かりきったことです。見事な因と果ですね。ニワトリが原因で、卵が結果として現れるのです。線形的に考えがちですから、昔は「ニワトリが先か、卵が先か」という疑問をつくって無駄に遊んでいました。この質問は無意味だと知ってはいますが、今も答えを見つけてはいません。線形的にしか考えられないので、この問題に線形的に答えることは可能です。 卵からニワトリは生まれません。その結論が間違っているのです。卵は瞬間瞬間、さまざまな因縁の関係によって変化し続けています。「ニワトリが先か、卵が先か」というのは、止まることなく起こる変化の流れの中で、ある二つの時点のみをとって考えているのです。間を無視しています。卵が割れてヒナが生まれたように見えますが、生まれる前から卵の中にヒナがいたのです。もっとさかのぼってみると、卵の中にあったのは白身と黄身の
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2月2日読了時間: 2分
因縁法則と疑の関係
因縁法則と疑の関係 見清浄に達するためには、修行者が観察するすべての対象をnāma とrūpa に区別できることが条件です。区別能力がついたら、一切の現象はnāma とrūpa で構成されるものであると、それ以上でも以下でもないという事実に目覚めます。これは見清浄の智慧です。四番目の度疑清浄に達するために、nāma とrūpa の因縁関係を観察するのだというのが、テキストの趣旨です。 これだけの説明では実践できないので、少々、解説する必要があります。仏説とは因縁法則です。しかしパーリ経典には、因縁の教えは人間にとってはあまりにも複雑で理解しがたいものであるとも説かれています。『清浄道論』を著したブッダゴーサ長老も、因縁の章に入ると自分は海に流されたような気分になると、ご自分の感想を述べています。因と果の相対性に気づいたナーガールジュナが、大乗仏教で有名な『中論』(空の思想)を作り上げました。ブッダが因縁を説かれたというのは正しい表現ですが、ブッダが一切皆空を説かれたというのは極論です。間違いとは言いづらいですが、言い過ぎだとは言えます。
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2月1日読了時間: 1分
疑は証拠が充分そろったところでなくなる
疑は証拠が充分そろったところでなくなる どんな人であっても、真理とは何かとは分かっていません。発見していないのです。真理についていろいろな人がいろいろな説を出します。できる範囲でそれらを勉強してみます。しかし、「これこそ真理だ」と最終的に決定することはできません。いくら勉強しても、疑がうろついているはずです。私がいつも出す例があります。「地球が丸い。この事実について、疑はありません。異論は成り立ちません」。疑とは、証拠が充分そろったところでなくなるものです。この説明で、疑という煩悩が常に私たちの心のバックグラウンドではたらいているのだと理解していただければ幸いです。ヴィパッサナー実践で四番目の清浄に達したら、疑が晴れるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】
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1月31日読了時間: 1分
自ら確かめていないので疑の煩悩がある
自ら確かめていないので疑の煩悩がある どこかの神様のところで供養すれば、子宝に恵まれます。商売繁盛します、宝くじが当たります、病気が治ります云々という場合は、何の躊躇もなくそちらへ行って、供養するのです。「私は現世利益のみを期待して供養したのです。人が解脱に達するべきであることは本当の真理です」と言って、自分の行動を正当化します。迷信については、テーラワーダ仏教徒も西洋やインドに負けません。お釈迦様は星占いはおかしいとおっしゃっているのに、ほとんどの人々は星占いを信じます。 では釈尊の教えを真剣に信じているテーラワーダ仏教徒たちの、この優柔不断は何なのでしょうか? それはとても自然な現象です。論理的に仏教が正しいと分かっていても、自ら確かめていないのです。ですから、疑の煩悩があるのです。疑の煩悩は、理解能力を揺るがします。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】
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1月30日読了時間: 1分
疑は煩悩だから皆にある
疑は煩悩だから皆にある 疑という煩悩は、欲・怒り・憎しみ・落ち込み・後悔などの煩悩のように悪く見えたりはしません。ほとんどの人々は、自分に疑があると認めたくもありません。仏道においては何の疑もないのだと自賛したいのです。しかし、煩悩だから皆にあります。疑の煩悩は人々の理解能力を揺るがします。 ブッダの教えをまじめに信じている人がいるとしましょう。その人に、世界は唯一の神が創造したのだ、という話をしても、笑って否定するでしょう。しかし、このようなエピソードを妄想してみましょう。どこかで神が現れた、というニュースが流れます。人々は神が現れたときのビデオも撮っています。CNN やBBC など世界最大級のマスコミも大々的にそのニュースを報道します。科学者や知識人も興味を抱いて、議論します(これは決してあり得ないエピソードを妄想しただけです)。では、そのときあの仏教徒の仏教に対する自信満々な精神は、どうなることでしょうか? 揺らぐのです。世間に向けて「これは嘘だ。でっちあげられた話だ、創造主が存在するはずはありません」などとは言えなくなります。困ってし
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1月29日読了時間: 2分
理論を実証することはできるのかと調べる
論を実証することはできるのかと調べる 仏教を学ぶと、ブッダの教えは正しい、真理が説かれているのだと、理解できます。それは知識的に納得しているだけです。自分で確かめたわけではありません。このような納得を、「信saddhā」と言います。科学の世界でも、さまざまな真理をまず「理論的にあり得る」と発見します。数学的にもそれは可能であると証明します。しかし科学的な事実の真理になっていません。確かなデータを集めて実証しなくてはいけないのです。論理的に数学的に立証されても、科学的な事実としては不充分です。論理的に数学的に納得した科学者が、さらに科学的な疑を持ってデータを調べます。理論を実証することはできるのかと、調べるのです。仏道においてもプロセスは同じです。ブッダの教えを学んで、議論して、他の教えと比較して、ブッダの教えが正しいとまず納得します。その人はそれから、実践して実証しなくてはいけません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p100】
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1月28日読了時間: 1分
疑は預流果の悟りに達するとき根絶される
疑は預流果の悟りに達するとき根絶される 預流果の悟りに達するとき、疑という煩悩が根絶されるのです。分かりやすいので、疑の説明をまず註釈書に沿って書きます。三宝に対する疑、四聖諦に対する疑、因果法則に対する疑、無常・苦・無我に対する疑、仏道に対する疑、輪廻に対する疑、業の法則に対する疑です。表面的に見ると「仏教を疑っては駄目ですよ」というようなPR 文句にも似ています。 少々詳しく解説します。疑とは煩悩です。悟りに達していない限り、一切の生命にあります。三宝を疑っている、などの解説では、充分な説明になりません。なぜならば、仏教徒は三宝を疑いません。輪廻も業も真理として認めます。それなら教えを学んだ仏教徒には、疑がないことになります。しかし疑という煩悩は、預流果の悟りによってなくなるものです。ですから、仏教知識においては一流の人であっても、疑の煩悩があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】
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1月27日読了時間: 1分
「疑」と呼ぶ煩悩を越える
「疑」と呼ぶ煩悩を越える では、ヴィパッサナー実践者が越える疑とは何でしょうか? 仏教を理解して実践に励んでいますから、修行者には精神病的な疑はありません。曖昧・中途半端な性格で、無知から生まれる疑もありません。また、真理を自ら確かめたいという理性的な疑を捨てたら、困ります。修行者が乗り越える疑は、不善心所の一つである疑心所です。一般的に言えば、「疑」と呼ぶ煩悩を越える、ということになります。この説明では、「なくす」ではなく、あえて「越える」という言葉を使っています。この智慧の段階では、疑という煩悩がなくなるのではありません。機能停止するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】
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1月26日読了時間: 1分
理性的疑rational doubt
理性的疑rational doubt 世間の話、伝統、神話、普通に知識というもの、などなどを無批判的に認めたくない人々もいます。認めるためには、証拠を要求する。また、自分で調べたり、確かめたりする。これも疑なのです。しかしこのタイプの人々は、事実を探すのです。ただ、世間に騙されたくないだけです。これは理性的疑rational doubt です。または科学的な疑とも言います。このタイプの人々は、さまざまな事実を発見して世に貢献します。無知から出る疑ではなく、事実を知りたいという気持ちから現れる疑です。疑というよりは、探究心です。科学者・研究者・知識人が持つべき疑なのです。このタイプの疑は、お釈迦様も大いに賛成します。お釈迦様自身も、自分で調べて確かめない限りは、人の話に無批判的に乗ることはなさいませんでした。この性格があったからこそ、真理を発見して悟りに達することができたのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】
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1月25日読了時間: 1分
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