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札幌仏教塾
成長の過程は誰にでも同じ順番で現れる
成長の過程は誰にでも同じ順番で現れる 修行者は修行を戒清浄から始めます。そのときから、心に成長の変化が確実に起こるのです。お釈迦様の教えでは、あっという間に、突然に、解脱に達するということはありません。それは因果法則に反します。種を植えたらあっという間に実った、ということはありません。種から実になるまでのプロセスがあります。種の種類によって、実るまでかかる時間にはバラつきがあることでしょう。桃栗三年柿八年というフレーズに、実るまでのバラつきが現れています。人間の能力にも、バラつきがあります。精進する度合いにもバラつきが出てきます。それによって、修行を始めて悟りに達するまでかかる時間が変わります。実るまでの時間が長かろうが短かろうが、成長の過程は同じです。誰にでも同じ順番で、ヴィパッサナーの智慧が現れるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月24日読了時間: 1分
ハシゴの喩えはいろいろ変えることができる
ハシゴの喩えはいろいろ変えることができる 七番目の横木と安全な境地は平行のレベルにあります(俗世間のレベルに属する苦聖諦と集聖諦、出世間のレベルに属する滅聖諦と道聖諦、という二種類が一つの智慧で理解できます)。七番目の横木に昇ったら、解脱という安全な境地です。 ハシゴの喩えをいろいろ変えることもできます。六番目の行道智見清浄の中身は九種類のヴィパッサナーの智慧でした。それも九つの横木でできているハシゴに喩えてみても構いません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月23日読了時間: 1分
六番目の横木は行道智見清浄
六番目の横木は行道智見清浄 この例で言う溶岩に呑まれかけて苦しんでいる状態は、生命が輪廻転生している状態です。ブッダの教えを聴いて、それは苦であると理解して、上に安全な境地があると分かる。それに達したいという意欲も抱く。 安全な境地に達したいという意欲を抱いたところで、智慧のハシゴが見えてくる。最初からすべて見えるというより、まず横木一つが見えてくる。それを昇ったら、次の智慧の横木が現れてくる……こんな調子で、六番目の横木も昇ってみる。それは六番目の行道智見清浄と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月22日読了時間: 1分
悟りに達する瞬間(七清浄の七番目:智見清浄)
悟りに達する瞬間(七清浄の七番目:智見清浄) やっと七清浄の七番目の智見清浄の説明になります。七つの清浄は、智慧は七つの段階で構成されているという理解で学んだ方が分かりやすいでしょう。輪廻の世界から涅槃の境地に達するときの段階です。喩えを作ります。 自分が溶岩に呑まれかけているとしましょう。それは決して面白くないと発見する。溶岩から這い上がろうとする。しかし溶岩の危険性のまったくない安全な境地には、高い壁がそびえています。そして、そこにハシゴがあります。このハシゴを昇れば、安全な境地に達します。このハシゴに七つの横木があります。その七番目に昇ったら、次は溶岩とまったく関係のない安全な境地です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月21日読了時間: 1分
諦めた瞬間の次に逃げる方向に心が行く
諦めた瞬間の次に逃げる方向に心が行く それでも、喩えを出します。前に火事になった寝室の話をしました。部屋が延焼しているので、怖くなったりして、それから部屋の状況はどうなのかと見て、部屋のことを完全に諦めることにする。それがupekkhā(行捨智)のステージです。 諦めるだけでは答えになりません。部屋から逃げ出さなくてはいけないのです。自分を救済しなくてはいけません。諦めた瞬間の次に、部屋から安全なところに逃げる方向に心が行くのです。窓の外を見たら、消防隊が空気マットを張っているとしましょう。そこで部屋の中にいる人には、ごうごうと燃えている自分の部屋も見えるし、その暑さも危険性も感じるし、外に張ってある安全な境地である空気マットも見えるのです。危険と同時に安全をいっぺんに見るというのは、このようなことです。まだその人に残っているのは、たった一つの仕事です。何の躊躇もなく飛び込むだけのことです。 行捨智という終局のステージに入った修行者にも、残っているのはたった一つの仕事です。解脱に飛び込むことです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践
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5月20日読了時間: 1分
現象の世界も解脱の境地も一つの真理として理解できる智慧
現象の世界も解脱の境地も一つの真理として理解できる智慧 空などを観察してみると、upekkhā の力がさらに強くなります。その力が頂点に達したら、空なる現象の世界も、空を乗り越えて達する解脱の境地も、一つの真理として理解できる智慧が現れます。 決して知識的な言葉では説明不可能なことを、今、無理をして説明しているので、読んでいるみなさんが理解できなくても心配する必要はありません。終局のステージに達した修行者の心の中身を言っているので、実践する人には問題なく経験できることです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月19日読了時間: 1分
空とは、行捨智で観察してみる一つの観察の仕方
空とは、行捨智で観察してみる一つの観察の仕方 空とは、ヴィパッサナー修行者が智慧の終局のステージの一つ前のステージ(行捨智)で観察してみる、一つの観察の仕方なのです。現象を無常・苦・無我という三つに分けてみる代わりに、一つにするのです。そのとき使う単語は、空です。しかし言葉遊びをしてはいけませんので、さまざまな角度で空を経験的に観察します。まず一つの側面として空を見る。それから、二つの立場で空を観察する。四つ、六つ、八つという立場も説かれていて、最終的に四十二の角度で空を観察するのです。Suñña という言葉は、異様な二重性を持っています。現象の世界の本当の姿に対して空と言えるし、真理に対しても空と言えるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p151】
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5月18日読了時間: 1分
Upekkhā の力が頂上のレベルに上がるまで育てる
Upekkhā の力が頂上のレベルに上がるまで育てる 最後の智慧を発見するために、一つ前の智慧である行捨智が唯一の手段になります。もしも修行者に諦随順智が現れないならば、繰り返し繰り返し、行捨智ステージの修行をします。徹底的にupekkhā の力を育てるのです。Upekkhā の力が頂上のレベルに上がるまで育てます。『清浄道論』では、そのための工夫がいろいろ説かれています。一つはsuñña 空の観察です。 空という単語は、日本の仏教界では日常的に使われているようです。これは宝石を石ころ扱いするようなことです。空を唱えたからといって、智慧は開発されませんし、なんにもなりません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p151】
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5月17日読了時間: 1分
四聖諦の四が消え、八正道の八が消える
四聖諦の四が消え、八正道の八が消える すべての現象は無常・苦・無我であると発見するとき、現れる智慧の中に入っているのは、苦聖諦と集聖諦です。滅聖諦と道聖諦は入らないと理解した方がよいと思います。道聖諦を実践しているのですから、それをカットしても構わないのですが、智慧に滅聖諦という真理は入っていません。ですが、この終局のステージでは、それも入ります。唯一の真理として、四聖諦を発見します。 次に疑問になるのは道聖諦である八正道だと思います。項目は八つですから、俗世間のレベルで実践するときは、八種類の実践になります。終局のステージに達すると、八種類の実践を完成しているのです。修行者が終局的なステージに入ったときの心に、その経験も入っています。要するにそれまでの修行(八正道)の結果として、諦随順智が現れたのです(四聖諦の四が消え、八正道の八が消える、とでも言っておきましょう)。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月16日読了時間: 1分
終局のステージの智慧も俗世間の法
終局のステージの智慧も俗世間の法 言葉で書くと、ここまでの説明のようになりますが、修行者の心の中に起こる出来事は言葉にすることはできません。修行者の心の中には四聖諦の四という単語さえも起きません。ただ、一切の現象のありのままの姿を発見するのです。現象は無常・苦・無我であるという立場で、時間をかけて観察して智慧を開発してきたのです。 終局のステージでも同じことかと、思われるでしょう。同じではありません。聖者にしか現れない智慧が、修行者に俗世間のレベルで現れたのです。修行者は俗世間の認識レベルをはるかに破って超えていますが、まだ悟りに達してないので、アビダンマでは厳しく、終局のステージの智慧も俗世間の法に入れます。これはただの学術的な問題なので、気にする必要はありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月15日読了時間: 1分
正しく四聖諦を発見すると諦随順智が現れる
正しく四聖諦を発見すると諦随順智が現れる 正しく四聖諦を発見するとは、諦随順智が現れることです。このときは、四聖諦は四つではありません。智慧一つです。これについて、無駄な議論は止めていただきたいのです。四聖諦が一つの真理になるはずがない、もし一つだというなら、それはどういうことだろうか、などと考えるのは、止めた方がよいです。四聖諦を発見するとは、真理はたった一つであるという立場で発見することです。このステージの修行者は俗世間の認識レベルを超えています。出世間的だと名付けるに相応しい智慧に達しているのです(まだ出世間の境地には入っていません)。ですから、四聖諦は真理であるという智慧に達します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月14日読了時間: 1分
知識は執着をつくる原因にもなる
知識は執着をつくる原因にもなる 俗世間的な知識で考えると、四聖諦とは四つの項目です。内容はそれぞれ違います。仏弟子は四聖諦を別々に理解します。例えば第一は苦聖諦です。そのとき、生老病死などを学びます。第二の集聖諦は苦をつかさどる原因なので、三種類の渇愛について学びます。三番目の滅聖諦は渇愛がない状態である、したがって涅槃であると、なんとなく理解するだけで終わります。四番目の道聖諦は八項目の八正道になります。それは理解できる項目なので、詳しく学べます。それから仏道を実践するということで、八正道を実践するのです。ヴィパッサナー実践という名前で『念処経』に説かれているように気づきの実践をしますが、これは正真正銘の八正道の実践です。しかしここまでの四聖諦に対する理解は俗世間的なもので、知識の範囲です。知識は執着をつくる原因にもなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p149】
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5月13日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:⑨ 諦随順智saccānulomika ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑨ 諦随順智saccānulomika ñāṇa 次に生まれるのは、諦随順智saccānulomika ñāṇa です。Sacca とはお釈迦様が語られた四聖諦のことです。仏道を学ぶ人々は、最初から四聖諦を学びます。徹底的に学んだとしても、弟子の理解は知識範囲に留まります。知識能力で理解できるところまで理解するのです。しかし知識とは、俗世間的な現象です。 知識によって執着が消えるという保証はありません。普通の知識なら、それは強烈に執着をつくります。仏教を学ぶとは、執着は苦の原因になるのだという真理を学ぶことです。だからといって、仏教知識を得たところで執着はなくなりません。かえって仏教の知識に執着を抱いてしまうのです。 執着をなくすために、知識ではなく実践が必要です。ここで説明する仏道の実践者は、実践の終局のステージに入っています。終局のステージで現れる智慧を諦随順智と言います。ここまできて、やっと四聖諦を分かったことになります。今までの四聖諦に対する理解はすべて知識です。今度は智慧が現れます。 【アルボムッレ・スマナ
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5月12日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:⑧ 行捨智saṅkhārupekkhā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑧ 行捨智saṅkhārupekkhā ñāṇa 火事になった寝室の話に戻りましょう。脱出したいという目的で寝室を観察しました。どこも危険で、寝室の中にいては助かるはずがありません。寝室のことは諦めて放っておかなければいけません。寝室はどうなってもいっこうに構わないという気持ちにならなければいけないのです。 一切の現象から脱出すべきであるという智慧に基づいて観察を続けた修行者は、一切のnāma とrūpa のことはどうなってもいっこうに構わないという気持ちになります。 今まで説明した智慧の段階では、心は次から次へと強いインパクトを受けてきました。今度は徹底して冷静な状況をつくるのです。そのためにも、またnāma とrūpa を観察しなければいけません。 いかなるnāma であれrūpa であれ、すべては無常です。すべては苦です。すべては無我です。すべては生滅の流れで成り立っています。放っておきましょう。すべては危険であると知った上で現れる冷静さは、尋常なものではありません。俗世間の人々に理解できそうなものでもないので
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5月11日読了時間: 1分
一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見する
一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見する Paṭisaṅkhā の意味を考えてみましょう。「これだからこうなっている。こうすればこのような結果になる」といった観察です。日常生活では普通におこなう作業です。例えば、このスイッチの上の方を押せば電気が点く、下の方を押せば電気が消える、などなどの観察です。その能力がないと、生きていられません。それは俗世間の能力です。 修行者は一切の現象を観察しています。脱欲智が生まれたので、脱出する目的を持って再び一切の現象を観察します。ですから、「これを押したらこうなる」というような感じの観察が必要になります。 仏教が推薦する脱出の境地は、世間常識では絶対、理解できるものではありません。ですからlokuttara と言うのです。Uttara とは、超越という意味です。Loka とは、世間という意味です。超世間と訳さなくてはいけなくなりますが、理解できる単語ではありません。一般的には「出世間」という言葉を使っています。 修行者の認識レベルは、今は常識レベルをはるかに超えて
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5月10日読了時間: 2分
六番目の行道智見清浄:⑦ 省察智paṭisaṅkhā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑦ 省察智paṭisaṅkhā ñāṇa 火事の喩えの続きです。燃えている寝室から脱出したくなるでしょう。しかし、その気持ちになっただけで、脱出成功とは言えません。まだ脱出を実行してもいません。脱出を実行する前に、やらなくてはいけないことがあるのです。それは火事になっている寝室を観察することです。正しく観察しないで脱出を実行すると、死んでしまうかもしれません。窓から逃げればいいやと飛び出したところで、自分は十二階に住んでいたと思い出しても、遅すぎます。廊下に逃げればよいと思って廊下に飛び出してみたら、廊下の方が火元で寝室までの延焼だった、ということもあり得ます。 ですから脱出を実行する前にやるべきことは、火事になっている寝室を観察することです。当然、どうすれば脱出できるのかという気持ちに基づいた観察です。修行者は実際の現象から脱出したいという脱欲智に達しています。それなら、今まで観察してきた同じnāma-rūpa という現象を観察するべきです。Vipassanā とは、明確に観察する、という意味です。今度は、脱出しますと
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5月9日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa 自分がいる状況は確実に危険であると分かれば、そこから脱出したくなります。自分の寝ている部屋が火事になってごうごうと炎が上がっていると発見したら、心は瞬時に脱出したいと思います。「きれいな部屋だったのに」「気に入っていたのに」「模様替えしたばかりだったのに」云々とは考えません。この喩えのように、修行者は一切の現象から脱出するべきだと発見するのです。この説明で一貫して「一切の現象」という言葉を使ってきました。 修行者は実際、何を観察するのでしょうか。身体と感覚のことです。Nāma とrūpa です。Nāma とrūpa とは、「自分」を構成するすべてです。ですから一般常識では、この脱欲智は理解できません。俗世間の言葉に変えると「自分自身が自分自身のことを怖畏だと感じて、自分自身から脱出したくなった」ということです。この文章の意味は全然理解できないと思います。つまりは、修行者にnāma-rūpa の生滅の流れから脱出したいという脱欲が生じた、ということです。「今いるところが危険
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5月8日読了時間: 2分
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa 一切の現象は怖畏のみをつかさどるのが本性であるならば、現象に対する未練を捨ててしまうのが理性的です。おいしそうに見える食べ物がある。食べたいという気持ちもある。その食べ物を徹底的に調べてみたところ、少量服用しただけでも死に至る猛毒で汚染されていると発見する。その発見と同時に、その食べ物に対して今まで持っていた未練は跡形もなく消えるのです。 現象をさらに観察し続ける修行者が、一切の現象に対する未練を捨ててしまうのです。この状況を厭離智と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p146】
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5月7日読了時間: 1分
一切のものごとの短所を発見する
一切のものごとの短所を発見する ありのままの現象を観察する修行者には、いとも簡単にすべての現象の短所が観えます。短所という言葉を使ったからといって、滅する現象に長所があるわけではありません。ただ怖畏だけ感じても、智慧は足りません。なぜ怖畏なのかと、明確に知った方がよいのです。言葉にすべき理由などはありませんが、現象はなぜ怖畏なのか、明確に発見します。「こういうわけで現象は怖畏です」というような発見が起きます。観察するどんな現象についても、この智慧が当てはまります。俗世間の言葉に入れ替えるならば、一切のものごとの短所を発見することに成功したのです。この智慧は過患智です。 この智慧も、心にさらに強いインパクトを与えます。現象は「ただなんとなく怖畏」ではないのです。怖畏は現実です。一切の現象は確実に怖畏のみを与える特色を持っているのだと発見すると、インパクトはさらに強くなります。執着は成り立たないということ、執着するとはあまりにも愚かな行為であることを、さらに強く発見します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2
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5月6日読了時間: 1分
悲観主義者ではなく現実主義者
悲観主義者ではなく現実主義者 海の喩えに戻れば、なんとか理解できると思います。ぼろぼろになった浮き輪に頼って大海のまん中をさまよっている人が、自分の置かれた状況を観察すると、常識を超えた恐怖を感じるでしょう。だからといって、やることはないのです。ただ、自分の状況を観察します。浮き輪に目をやる。見るからにぼろぼろです。波に当たるたびに、古くなったゴムが壊れていきます。決して強くなったり、新しくなったりはしません。自分の身体を見る。潮の中にいるので、身体が壊れていきます。決して、健康な身体になるわけではないのです。高い波が来る。それに当たったらどうなるのか分かる。サメなどの魚を見る。サメが自分を見つけたら、何をするのか分かる。決して、背中に乗せてどこかの島へ運んでくれるはずはありません。このように、周りにあるものはすべて、自分の死を早めるものばかりであると観ることは悲観主義でしょうか? 悲観主義者ではなく現実主義者です。もしその人が楽観主義者になって、「言葉を喋れるウミガメが来て、きっと自分を陸地まで運んでくれるに違いない」と思っても事実は変わらな
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5月5日読了時間: 1分
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