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札幌仏教塾
観察の汚れ:⑩ 微欲nikanti
観察の汚れ:⑩ 微欲nikanti 微欲は発見しにくいです。これまでの九つの障碍には、それなりの理解があれば気づきます。それで障碍から抜けられます。しかし、nikanti はそれほど甘くありません。修行者は長い時間をかけて、観察の実践をしてきました。結構成長しています。智慧も現れています。ブッダの説かれた真理を自分の力で発見してもいます。ですから、この道(ヴィパッサナーの修行方法)は間違いなしです。これこそが歩むべき、実践すべき道なのです。当たり前のことです。これもまた、事実です。しかし、これが落とし穴になってしまうのです。自分でも気づかぬうちに、修行そのものが好きになっているのです。本当は、冷静な、さらに理性に基づいた修行に対する「好き」が必要です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p131】
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4月4日読了時間: 1分
度を越して落ち着いていると進歩がなくなる
度を越して落ち着いていると進歩がなくなる 冷静さupekkhā は必要です。Upekkhā が強くなればなるほど、人は落ち着きます。しかし、度を越して落ち着いていると、進歩がなくなってしまいます。 俗世間の立場で考えてみましょう。人は自分の状況を見て「これでよいのだ。私は満足だ」という気持ちになると、さらに成長するべきという意欲を失います。しかし「今の状況も悪くないが、もう少々、良くなるのも悪くない」と微妙に不満を持っていると成長します。修行者の心にも、このような問題が起きます。Upekkhā が強烈になると、気持ちがよいのです。それで満足してしまうのです。この満足感が障碍になります。Upekkhā という大事な能力を独り歩きさせてはいけません。他の能力と一緒でなければ良くないのです。さらに、upekkhā 漬けは解脱ではありません。無常なる心所の一つです。心所は無常です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p131】
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4月3日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑨ 捨upekkhā
観察の汚れ:⑨ 捨upekkhā 捨と書きますが、upekkhā は「捨てる」という意味ではありません。冷静にいる、という意味です。修行の初期段階では、それほど冷静にいることはできません。冷静さがなくなると修行は止まるので、修行者は冷静さを保つために結構苦労します。 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者には、一切の現象が無常・苦・無我に観えています。修行者は仏教徒なので、この三相は真理であると頭で分かっていました。しかし実践の結果、それを発見します。そのときはびっくりします。自分は今まで頭でっかちに無常・苦・無我だと思っていたけれども、内心は(無意識的に)常・楽・我だと思っていたことも発見します。今までの勘違いにびっくりします。しかしさらに観察を続けると、無常・苦・無我とは現象のありのままの状態であると、どんどん心にインプットされていきます。そのときは、何の驚きもありません。冷静にいます。 このupekkhā は必須条件です。しかしついつい、冷静さが優先になってしまう恐れがあります。人が度を越して冷静になると、どうなると思いますか?
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4月2日読了時間: 2分
突然、強烈な気づき能力が現れて正知の力が弱くなる
突然、強烈な気づき能力が現れて正知の力が弱くなる 五番目の道非道智見清浄のステージの修行者に、突然、強烈な気づき能力が現れてきたら、正知の力が弱くなってしまうのです。気づきが勝手に出て仕事をしているので、修行の能力が完成した気分になります。お釈迦様も、「真理に達した人とは常に気づきがある人だ」と説かれています。今、自分は現実的に「常に気づきがある」状態にいます。ということは解脱ではないか、という勘違いも起こり得ます。このような勘違いがないとしても、勝手にスピードを上げている気づきが、修行のバランスを崩すのです。バランスが崩れたら、進めなくなります。 修行する人にsati は必須条件です。決して悪いものではありません。最初から苦労しながらその能力を育てたのです。その能力が勝手にはたらくところまで成長したら、ありがたいことだと思うのは無理もない話です。ですからその能力に執着してしまいます。これが障碍です。この障碍も結構起こり得るので、要注意です。 Sati とsampajāna はペアであること、一つだけ突出してはいけないこと、sati...
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4月1日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑧ 安住upaṭṭhāna
観察の汚れ:⑧ 安住upaṭṭhāna Upaṭṭhāna とはsati 気づきのことです。長いあいだ気づきの実践をしたので、修行者はそれに慣れています。気づきのプロです。その人に、sati がsamādhi と同じようなはたらきをし始めます。どんな現象が起きても、いとも簡単に気づいて確認するのです。 山の頂上に立った人には、いとも簡単に、麓にある村や川や田畑、往来の人々などがいっぺんに見えてしまいます。麓にいたときとはわけが違います。修行者には何ごとについても強烈にsati が起こります。自分が意図的に気づきを実践する必要はなくなったのです。Sati なしには自分の心の中で何も起こらない状態になっているのです。 それがなぜ障碍になるのか、理解しがたいと思います。しかし、気づいただけでは智慧が現れません。ものごとを観察しただけで、科学者にはなりません。仏教用語ではsati と一緒にsampajāna 正知という言葉をペアにしています。正知は定義が難しい単語です。ヴィパッサナー実践を始める人は、気づきの実践として「膨らみ、縮み」等々、言葉で確
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3月31日読了時間: 2分
目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解する
目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解する 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者は、nāma-rūpa をさまざまな角度で観察しなくてはいけません。高いレベルの精進が欠かせないのです。少々でも心が乱れないようにしなくてはいけません。そこでどんどんやる気ばかり現れてくると、周りが見えなくなります。観察は正しく進まなくなります。悟りに達したという勘違いは起こらないかもしれませんが、「とにかくやればいい」というわけでもないのです。 もちろん、解脱に達したという勘違いも起こり得ます。解脱者には怠けがありません。怠けを根絶しています。今、自分にも怠けがまったくありません。現れる気配さえもないのです。そこで勘違いしてしまう可能性もないとは言えません。修行者は自分の心に起きているけた違いの精進の力をそのまま確認します。それから、精進は目的ではないと、目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解すれば、この障碍も解決です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p129】
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3月30日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑦ 策励paggaha
観察の汚れ:⑦ 策励paggaha この説明は簡単です。Paggaha の本当の姿は精進です。何があっても何が起きても絶対やるぞと決めて、そのとおりにやることです。修行を始めるときは、これぐらいの意欲がなければ修行は進みません。どんどん智慧が現れてくると、成果が見えてくると、やる気も強くなってしまうものです。そこでバランスが崩れます。 分かりやすい例を出しましょう。車を運転する人が、アクセルを踏むと前に進むことを発見します。スピードが出ると気持ちがいいものです。それでその人はアクセルばかり集中して踏んでしまうようになる……。そうなると前進して目的地に達するどころか、事故を起こして終わりです。精進は欠かせない心所ですが、「精進主義」はくせものです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p128】
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3月29日読了時間: 1分
saddhā よりadhimokkha という心所が優先すると嫌われる
saddhā よりadhimokkha という心所が優先すると嫌われる Adhimokkhaは必要悪のような心所です。認識するためには欠かせない心所です。さまざまな宗教を信仰する人々を外から見て、盲信しているのではないか、他のことが見えてないのではないか、頭が何も理解しない頑固な状態になっているのではないか、と思った経験があるでしょう。原理主義者になって、犯罪行為までしてしまう人々も結構いるでしょう。これは他宗教に限った問題ではありません。「お釈迦様の教えこそ正しいのだ。他宗教どころか大乗仏教も断然、間違っているのだ。私は本当のお釈迦様の教えに出会えて幸せものだ」などと言う人もいます。結局は周りから嫌われます。 このように言う人は、それなりの理解があって、言葉上、本当のことを言っているかもしれません。では、なぜ嫌われるのでしょうか? それはsaddhā よりadhimokkha が優先になっているからです。Saddhā の強い人は明るいです。皆に好かれます。他人はその人の話を聴きます。しかしsaddhā という心所よりadhimokkha...
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3月28日読了時間: 1分
三相の特性を観察すると、saddhāと同じくadhimokkhaも起こり続ける
三相の特性を観察すると、saddhāと同じくadhimokkhaも起こり続ける 釈尊の教えこそが断言的に真理であるという確信に達したら、修行者はこのように解釈します。「預流果とは信を確定した人のことである。お釈迦様は預流果に達した人の特色として仏法僧に対する決して揺らがないsaddhā があることだと説かれています。今まさに自分はその状態に達しています。ということは、預流果の解脱に達しています」。このように思うことは、解釈であって推測が入っています。実際は解脱に達してないので、修行に対する障碍です。「揺るぎない確信がある。それこそが解脱である」とは、どこにも説かれていません。このように観察すると、この障碍から立ち上がれます。 ここで、心の中で何が起きているのでしょうか? Saddhā とadhimokkha が離れないようにくっついてしまったのです。Adhimokkha は認識するたびに、その都度の対象によって変わらなくてはいけないものです。三相の特性を観察すると、saddhā が起こります。そればかりを観察するので、同じくadhimokkh
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3月27日読了時間: 1分
真理にしがみつくという問題
真理にしがみつくという問題 優れた修行者は、始めは知識的に、仏法に対して確信を起こします。それから修行を始めました。今はブッダの説かれた教えがそのまま真理であると自分で確認しています。一切の現象が無常・苦・無我であると確認済みです。 ここで問題が起きます。真理を発見した人が、その真理にしがみつく、という問題です。他に何も見えなくなるのです。真理を知っているので、真理でない現象に対して興味を持つ必要もありません。興味を失います。ブッダの教えこそが真理であると、無常・苦・無我いずれかの特性に心がくっついてしまいます。Saddhā 確信は問題ありません。真理を発見したのですから。しかし、それにくっついてしまうこと(adhimokkha)は、問題になりかねません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p127】
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3月26日読了時間: 1分
真理に納得することで起こる確信が善心所のsaddhā
真理に納得することで起こる確信が善心所のsaddhā アビダンマの心所としての確信は、善心所です。腕のいい運転手は、運転に自信があります。それも確信です。しかし、見事に運転できるということは俗世間的な能力で、善行為にはなりません。真理を知ること、理解すること、真理に納得することで起こる確信が、善心所になるsaddhā です。他宗教の方々が神を信じることは信仰であって、saddhā になりません。神とは確信することが不可能な概念です。お釈迦様が説かれる四聖諦、善悪の問題、八正道、無常・苦・無我などの話は、真理です。事実です。議論することも、理解することも、納得することも、確認することも、可能です。この状態はsaddhā です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p126】
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3月25日読了時間: 1分
学生は初めから健全な精神状態でいなくてはならない
学生は初めから健全な精神状態でいなくてはならない アビダンマの心理学では、俗世間的な心理学を説明する気持ちは初めからありませんでした。解脱を目指す人間に必要な心理学のみを語っています。俗世間の心理学者から見れば、アビダンマ心理学はもの足りなく感じる可能性もあります。仏教の立場から見れば、俗世間の心理学は幼稚的な遊び以外の何ものでもありません。アビダンマ哲学者たちがさまざまな精神病に対して少々説明を入れておいたならば、現代心理学から見てもアビダンマは完全な心理学になりました。では、なぜ入れなかったのでしょうか。仏教とは一般認識レベルを超えることを目指しています。Uttarimanussadhamma 超人法の境地を目指しています。そのための心理学であって、病気を治療するための心理学ではないのです。アビダンマを学ぶ学生は、初めから健全な精神状態でいなくてはなりません。 ここまでの説明は、アビダンマの確信の定義は俗世間にある確信とは違うことを説明する目的でおこなったものです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2
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3月24日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑥ 確信adhimokkha
観察の汚れ:⑥ 確信adhimokkha 心・心所の説明でadhimokkha 勝結という心所に出会いました。何かを認識するときというのは、心がその対象から離れないで対象にくっついている状態です。この状態でなければ認識することができません。 優れた修行者が経験するadhimokkha という障碍は、心所のadhimokkha とは違います。『清浄道論』では、adhimokkha とはsaddhā のことであると解説します。であるならば、adhimokkha ではなく素直にsaddhā と言えばいい話です。なぜ言葉を変えたのか、説明していません。 Adhimokkha という心所はすべての生命にあります。その瞬間その瞬間、認識する対象にしがみついて離れないようにしない限り、認識は不可能です。当然、現象は無常で瞬間の寿命しかないので、adhimokkha も瞬間の出来事です。 Saddhā 信という心所は、すべての生命に起こり得るとは言えません。これは善心所の一つです。Saddhā は普通、信と訳しますが、正しい訳は「確信」です。確信するため
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3月23日読了時間: 2分
観察の汚れ:⑤ 楽sukha
観察の汚れ:⑤ 楽sukha 楽の説明は三番目のpīti 喜と同じです。ここでは言葉の違いだけ理解しておきましょう。喜とは激しい波です。楽とはとても落ち着いた波です。楽の場合は、安楽という言葉があるでしょう。楽があって、その上、徹底した安心感もあるのです。普通の日本語でも、「これは楽しい」という場合と「これは楽」という場合には違いがあります。その違いは何かということは言葉で説明しにくいです。蜂蜜の甘さの違いを言葉で説明することと同じです。 ここでは、安楽の波が際限なく勝手に流れて、修行者の身体の全細胞を支配します。解決するには、修行者は安楽感を観察することです。安楽は悪いものではないけれども、それも解脱ではないと確認するのです。そうすると、執着が起きて修行を止める危険性はなくなります。悟りに達したという勘違いはなくなるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p125】
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3月22日読了時間: 1分
観察の汚れ:④ 軽安passaddhi
観察の汚れ:④ 軽安passaddhi 軽安とは、軽いという意味です。落ち着いた、というニュアンスも入っています。真夏に人が道を歩いたとしましょう。暑いし、歩いて身体も疲れているのです。それから、クーラーがついている家に入ります。ソファに座ります。今までの苦しみが消えていきます。落ち着くのです。 ヴィパッサナー修行は重労働です。集中力を保つことも大変です。身体で痛みを感じます。修行がうまく進まないときは、精神的に悩んだりもします。修行の先が見えない、という不安もあります。ここで、このような問題が、突然、消えます。身体が軽くなります。肉体の重さが消えます。心も軽くなります。修行に対する邪魔がすべて消えた気分になります。言い換えれば、自分という存在が「無」になった気分です。修行する自分が今ここにいるのに無になった状態でいるのです。ここで「目指していたのはこの状態ではないのか」と思ってしまうのです。「悟りに達した聖者たちが、苦を乗り越えたと説かれているのは、まさにこの経験である」と思ってしまうのです。 ここには執着が現れています。ある一時的な経験
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3月21日読了時間: 2分
観察の汚れ:③ 喜pīti
観察の汚れ:③ 喜pīti 修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒」にならないのです。なぜならば、否応なしに勝手に喜びが湧いてくるからです。別に依存する必要はないのです。 しかし、何かに達した気分です。その達した境地から、限りなく喜びが溢れ出すようです。このとき、修行者は「目指す境地はこれではないのか」と思ってしまうのです。「苦がなくなったとは、この状態ではないのか」と思ってしまいます。要するに、悟った気分になってしまうのです。したがって、修行の汚れです。障碍です。他宗教の方々も、宗教体験を得たときはこの喜びを感じたと言います。しかしヴィパッサナー修行者にとっては、一時的な現象であるというふうに見えないのです。自分は
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3月20日読了時間: 2分
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。 修行者はこの落とし穴から這い上がるために、次のように観察するべきです。「今、無常・苦・無我のみが観えています。これは現象のありのままの姿です。現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません。そのように説かれてもいません」。このように理解すれば、この障碍は乗り越えられます。 この体験は、他宗教の神秘体験者には起こり得ません。なぜなら、たとえ無常だと分かっても、「現象の中に実体たる何かがあるはずです」と、思ってしまうからです。無常なる現象の裏に神がいると盲信するのです。他宗教が語る最終目的を仮に「神を体験する」ということにするならば、その人は自分が観察するべ
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3月19日読了時間: 2分
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa 言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。 ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観えてしまうようになっています。そうなれば、一切は無常であり苦であり無我であると結論に達するのは、いたって簡単です。 修行者は三相を三つとも観察したりはしません。最初は三つとも観察しますが、集中力が上がると、無常・苦・無我のうち一つに心が集中するのです。その時点になると、言葉としては無常・苦・無我の三相に分かれていても、すべての現象を一つの特性で観るようになっています。これは紛れもなく、智慧なのです。 本来、智慧は障碍にならないはずです。それが障碍になるとはどういうことか、少々、説明しましょう。「一切現象は苦であると智慧をもって知る人は一切の苦しみを乗り
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3月18日読了時間: 2分
観察の汚れ:① 光obhāsa
観察の汚れ:① 光obhāsa Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るのは普通に起きていることですが、強い光に当たるとまぶしくて決して楽な経験にはなりません。突然、強烈な光が目に入ったら、一時的に目が見えなくなることもあります。 困ったことに、瞑想中に出てくる光にはこのような問題がありません。困るどころか、修行者は喜びます。この喜びが執着に変わります。一番困ることは、「これこそが悟りの光である」と解釈することです。そうなると、まだ悟りに達していないのに、悟ったつもりになるのです。修行を終了してしまうのです。ですから邪魔です。障碍です。とはいっても、現れるときは現れます。 決して「光が現れてほしい」と期待してはなりません。
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3月17日読了時間: 2分
観察の汚れ
観察の汚れ 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者は、徹底的に観察を続けています。無常・苦・無我という角度で観察していますから、頭の中で無数の概念が飛び回ることもありません。智慧も現れているし、集中力も高いです。それから必死になって修行をしています。このような優等生の修行者が、いくつかの神秘体験を経験することはあり得ます。中途半端な気持ちで修行する人には現れません。しかし、この体験は智慧を開発する邪魔をします。執着を捨てる気持ちを邪魔します。神秘体験はヴィパッサナー修行者にとっても、面白いものです。つい執着してしまう恐れがあります。 ヴィパッサナーとは解脱を目指す道なので、それを邪魔して執着を引き起こすがために、ヴィパッサナー瞑想中に起こる神秘体験は、汚れ・障碍と呼ばれます。修行者は十種類の汚れとは何なのか、理解する必要があります。 これから、十種類の観の汚れのリストを、『アビダンマッタサンガハ』テキストの順番ではなく、『清浄道論』の順番に合わせて説明します。その方がベターです。抜けやすい障碍から、脱出しにくい障碍、という順番になって
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3月16日読了時間: 2分
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