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札幌仏教塾
お粥とおにぎり
お粥とおにぎり 無数のはたらきがあって、世は成り立っています。そして、一つのはたらきが別のはたらきと一緒になって機能する場合が多いです。プラスティックの筒は一つのはたらき。インクが入っている筒は別なはたらき。ペン先のベアリングは別なはたらき。キャップは別なはたらき。それぞれのはたらきを合わせたところで、「ボールペン」という現象が見えてきます。 仏教は「ものは存在する」という実体論は正しくないとします。実体はないのです。はたらきがあるのです。ものごとのはたらきを発見すると、実体論が間違っていると理解できます。ものごとに名前を付ける場合は、はたらきを考慮するのです。お粥とおにぎりと言えば、中身は同じですが、別々な現象です。それぞれのはたらきが違います。お粥だと勘違いしておにぎりを食べたり、おにぎりだと勘違いしてお粥を食べたりはしません。このようにして、違うはたらきをするから違うものが存在するのだ、という認識が生まれます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p87】
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2025年12月29日読了時間: 1分
四つの観察②:rasa 作用
四つの観察②:rasa 作用 ものは「ある」と一般的には思っています。実はものがあるのではなく、さまざまなはたらきがあるのです。このはたらきを認識して、ものだと思っているのです。 何かを指して「ボールペンだ」と言ったとしましょう。しかし何を指してもいいわけではありません。「ボールペン」と言えるためには、そのものが何かの仕事をこなさなくてはいけません。ある品物がおこなうはたらきに対して、「ボールペンだ」と言うのです。プラスティックの筒をボールペンとは言いません。何かの品物に「マイク」と言います。その場合は、その品物がある特定の仕事をしているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p86】
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2025年12月28日読了時間: 1分
八十一個の現象
八十一個の現象 ものごとの自性を見いだすことができれば、それは抜群の能力になります。しかし俗世間的なものごとの自性をすべて見つけることは、あり得ない話です。ここで仏教は、科学者が使う方法論を用います。生物学者は、すべての動植物を一個一個別々に研究することはしません。類似点を見つけて、グループに分けて研究しやすくします。仏教の場合は、存在全体をnāma とrūpa という二つに分けます。それから、nāma はいくつあるのか、rūpa はいくつあるのかと調べるのです。アビダンマではnāma は心一つと心所五十二、合わせて五十三です。Rūpa は二十八です。簡単で分かりやすいです。八十一個の現象になったのは、それぞれの現象(dhamma)に自性があるからです。修行者はnāma のいずれかに集中してみます。Rūpa のいずれかに集中してみます。その場合、集中したdhamma の自性が観えてきます。 修行者はnāma のすべてを観察する必要はありません。同じくrūpa のすべてを観察する必要もありません。修行中、何かに気づくでしょう。それをその都度、観察す
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2025年12月27日読了時間: 1分
紙コップ
紙コップ例えば、紙コップを五つくらい取り出して、机の上に置きます。それからシャッフルします。では最初に置いた紙コップを見つけてください……それは無理です。五つの紙コップとも、まったく同じものに見えます。区別はできなくなります。 宿泊瞑想会では皆、面白いことをします。飲み物のために紙コップを使います。しかし資源の無駄遣いになるので、一杯飲んで使い捨てるのではなく同じ紙コップを一日使い続けます。朝、最初にコップを使ってから、コップに自分の名前を書いておきます。そうすることで、紙コップを一箇所に片づけてあっても、自分専用のコップを見つけることはいとも簡単になります。この場合は紙コップの区別ができないので、あえて特色をつくってあげているのです。 すべての現象は、一回限りの現象だとも言えます。毎年同じ桜の花は咲きません。咲いた花も一個一個違います。しかし派手な自性を持っていないので、同じに見えてしまいます。昨日の自分と今日の自分は同一ではありません。別人です。しかし、派手な自性を見いだせないので、昨日も今日も明日も、同じ自分だと思ってしまうのです。【アルボ
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2025年12月26日読了時間: 1分
四つの観察①:lakkhaṇa 特色・自性
四つの観察①:lakkhaṇa 特色・自性 特色という用語を解説してみると、結構面白いと思います。具体的な例で説明します。みなさんが愛用しているボールペンを取って、机の上に置いてください。同じブランドで同じ色のボールペンを誰かから借りて、机の上に置いてください。二本のペンは似ているので、いったん机の上に置いたら誰のものか分からなくなるでしょうか。いいえ、そうではありません。よく見てみれば、二本の同じ種類のボールペンの中から、自分が使っていたボールペンを見つけることができると思います。ここは特色・自性という概念がはたらいているところです。自分が愛用しているボールペンと、他のボールペンのあいだで、特別に違うところがあるのです。自分のボールペンだけが持っている、他のボールペンは持っていない特色があります。それがlakkhaṇa ということです。 Lakkhaṇa を見分けることによって一つの現象をもう一つの現象と区別することができるのです。花と葉っぱを区別できます。ブロッコリーとカリフラワーを区別できます。それぞれの品物が、自分が何者かと示す特色をla
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2025年12月25日読了時間: 2分
見清浄と四つの観察
見清浄と四つの観察 注釈書では、見清浄のとき、どのように観察するべきかを説明してありますが、かならずしもそのとおりにやる必要はないと思います。これから説明しますが、各修行者の能力に応じて、ある程度できるならば充分です。注釈書としてはすべてを説明する義務があるので、難しい説明になるのはやむを得ないところです。 修行者は物質の流れ(rūpa)と心の流れ(nāma)を区別して知っています。そこで複数のrūpa の中で何か一つのrūpa を選びます。また、複数のnāma の中から、何か一つを選びます。そして、選んだ現象をlakkhaṇa、rasa、paccupaṭṭhāna、padaṭṭhāna という四つの立場で観察するのです。これからこの四つの言葉の意味を理解しましょう。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p84】
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2025年12月24日読了時間: 1分
まずはrūpa の変化(流れ)に集中
まずはrūpa の変化(流れ)に集中 一つの例を出します。Nāma とrūpa の両方を観ることができるようになっています。しかし、両方同時に集中することはできません。まずはrūpa の変化(流れ)に集中してみます。次に、感覚の変化に集中してみます。次に、感覚と物質が一緒になって変化していくことに集中します。実況中継する言葉を探すのは大変だと思うところです。しかし実況を止めたら、実践は崩れてしまいます。今まで使ってきた言葉をそのまま使っても構いませんし、新たに頭に浮かんだ単語と入れ替えても構いません。言葉が行ったり来たりするのは構いません。「Nāma とrūpa」と確認したり、「感覚の流れ、物質の流れ」と確認したりします。それに飽きてきたら、もとの「膨らみ、縮み」などに戻ります。このように言葉は行ったり来たりします。しかし一貫して、新たに発見した智慧に基づいて観察をするべきです。このようなやり方で、見清浄がさらに強くなっていきます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p83】
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2025年12月23日読了時間: 1分
見清浄の成長
見清浄の成長 最初に現れる見清浄は、それほど強くありません。修行を止めたらすべて忘れてしまう可能性もあります。 見清浄を薄いままで放っておいて修行しても、次のステップに進めません。Nāma とrūpa の分離智が現れてから、その智慧に基づいて次の実践に進む必要があります。普通の実況中継で構わないのですが、「足を上げます」と実況するときは、足というrūpa の動きと、感覚変化というnāma の動きに集中するように励みます。ですから、さらに集中力が必要な作業になります。具体的なやり方は、各個人で工夫する必要があります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p84】
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2025年12月22日読了時間: 1分
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる しかし見清浄に達したら、これらの悩みは減ります。これらの悩みをもう少々、観てください。何か問題があります。それは「自我」が絡んでいることです。すべての悩みに「私は」という主語があります。「私がいない」という想定で実践しなくてはいけないのです。私がいない、という想定で実践できるようになってから初めて、現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになるのです。「私がいるわけではない」という気持ち・経験に達することが見清浄である、と理解しておきましょう。要するに、修行に対する不平不満が消えます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p83】
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2025年12月21日読了時間: 1分
修行者たちの悩み
修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄想が映像として頭をよぎります。呼吸が浅くなって確認できません。仕事上の問題がありまして、家族に問題がありまして、修行に集中するのは大変です。思考を止めなさいと言われるが、思考は人間にとって大事なものです。涅槃・解脱という境地はどのようなものかと、先に知っておかないと自信を持って修行に励むことはできません……などなどが修行者の悩みです。誰にだって身に憶えがあると思います。指導者はこのような悩みに決して対応してあげません。指導者のその無関心ぶりに対しても、不満をおぼえます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p83
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2025年12月20日読了時間: 1分
それなりの安らぎ
それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではなく、見清浄に達しているのです。そして、この段階にくるとそれなりの安らぎがあります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p82】
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2025年12月19日読了時間: 1分
nāma とrūpa の流れに過ぎない
nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、他の何者でもなくnāma とrūpa の流れに過ぎないのです」 これは、智慧がワンステップ進んだことを意味します。これだけの智慧が現れると、今まで悩んできた見解などが消えているはずです。神がいるか、如来がいるか、私がいるか、私は何なのか、等々の見解はきれいさっぱり消えているはずです。自分が修行で発見したのは、物質と感覚の流れだけであり、見解とは妄想と思考の産物であると知るのです。客観的に観察すると、見解などは一つも成り立たないのです。しかし人は、妄想・概念・見解の網に絡まって、苦労しています。人々と喧嘩します。自分の見解が正しいという前提があるので、自我
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2025年12月18日読了時間: 1分
nāma とrūpa を区別して発見する
nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です。それは動いています。動くときはかならず感覚が必要なのです。「物質の中に感覚の流れが入り込んでいるから、動きが成り立っているのだ」と発見します。今まで大雑把に「私・自分」という気持ちでいたのですが、それが変わります。「身体という物体があります」「その中に感覚が流れています」、このように二つに分かれて観えてくるのです。専門用語を使うならば、nāma とrūpa を区別して発見する能力が生じた、という段階です。ある程度の智慧が現れているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p81】
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2025年12月17日読了時間: 1分
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上げる、下げる、足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況しても、「私は手を上げています、下げています。私は足を上げています、運んでいます、下ろしています」というような気持ちです。「私」という言葉を使わなくても、その気持ちが入っているのです。または、「私の手、私の足」という気持ちがあるのです。修行者は「私の身体の動き」を実況しています。そのように、「私」という気持ちが入り込んでいるときは、修行自体がそれほど面白くありません。苦しく感じます。身体の痛みに、痒みに、悩みます。そして、痛みなどをなくす方法を模索します。それは初期段階です。集中力が現れてくると、痛み・痒
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2025年12月16日読了時間: 2分
自然に集中することができるようになる
自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負けずに続けてみると、実況中継は苦労しないでできるようになります。言い換えれば、実況中継に慣れてしまいます。実況中継がマンネリになります。これは心清浄だとしましょう。要するに、集中力が現れたのです。自然に集中することができるようになったのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p80】
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2025年12月15日読了時間: 1分
見清浄に達するために
見清浄に達するために 特別に何もする必要はありません。ただヴィパッサナー実践を続けておこなうだけです。心の成長のためには、何かを繰り返し、繰り返しおこなう必要があるのです。ここで修行者は、気づきの実践を繰り返しおこないます。今までおこなったことがない仕事なので、慣れるまでは大変苦労します。しかし徐々に慣れてくると、心も徐々に成長する。徐々に安らぎを感じられるようになる。 Visuddhi(清浄)という名前で説明しているのは、心がどのように成長していくのかという順番です。心の成長はここで説明している各清浄の順に起こります。一つを飛ばして次に行くことはできません。清浄に達したい、という気持ちさえもよくないのです。そのとき幻覚が生じて、清浄の妨げになります。ですから、ひたすらヴィパッサナー実践を続ければ充分です。 素直にヴィパッサナーの気づきの実践をおこなう修行者は、まず戒清浄に達します。そして次に、心清浄に達します。さらに修行を続けると、自然に見清浄に達するのです。このとき、修行者には「これが見清浄だ」という実感は起こりません。修行者の瞑想経験から現
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2025年12月14日読了時間: 1分
もしかしたら何かがあるはず、という気持ち
もしかしたら何かがあるはず、という気持ち 我々人間は、神、守護霊、先祖の霊、ただの霊、精霊、山、川、海、水、火、雷、風、聖地、樹木、岩、蛇、馬、ライオン、ワシ、狐、龍、等々の何かを信仰して、何かに頼って、安心感を獲得するのです。存在欲に燃料を供給します。それらは空(から)の安心感ですが、否定する勇気はありません。もしかしたら何かがあるはず、という気持ちは消えません。このような生き方が、見解の網に絡まった生き方なのです。そう簡単には抜けられません。 見解にはまっているとは、存在欲にはまっていることでもあります。存在欲があると当然、怯え、恐怖感、不安からも抜けられません。これは怒りの感情です。この両方が、無知だから起こります。要するに、「見解がある」とは、心が汚れていることなのです。 例えば、「私は神を信仰して謙虚にまじめに生きています」と宣言する人々がいます。自分は信頼できる、やましいことをしない人間だと言いたいつもりでしょうが、仏教の見解の説明から通訳すると、「私は見解と貪瞋痴の罠にはまっていることを自慢に思っています」という意味になります。もし
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2025年12月13日読了時間: 2分
皆、見解の網に絡まっている
皆、見解の網に絡まっている 知識を駆使すると、見解の間違いが見えます。しかし否定する勇気はありません。何かの不幸に遭遇した人に、「これも神の思し召しです」と言えば、一神教の信徒でもないくせに落ち着きます。「こんなアホな考え」と否定する勇気がないのです。親しい人が亡くなって、人が悲しみに陥っているとき、「阿弥陀様のお迎えで極楽浄土に往生されました」と言ってあげれば、何の躊躇もなく納得します。そのときに、「私はそんなことは知りません。知っているのは、親しい人が亡くなって寂しくてたまらない、という現実のみです」と相手に言う勇気はありません。そしてこれは、勇気だけの問題でもないのです。人に対して失礼な言葉を発しない方がよいのです。自分の心は無数の見解の網に絡まっています。たとえ勇気を振り絞って、「神様や阿弥陀様は信じません」と言っても、相手から「あなたは自分が知っていることだけがすべてだと思っているのですか?」と反論されたら終わりです。信仰がある人もない人も皆、見解の網に絡まっているのですから。 見解のない人は存在しません。「私は何も信じません」と言う人
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2025年12月12日読了時間: 2分
見解を破る
見解を破る 解脱の境地に達する修行者は、捏造機能を止めるのです。自然に捏造してしまう習慣がなくなった状態は悟りであると、釈尊は説かれます。 修行を始めた私たちに、いきなり捏造機能をストップすることはできません。それには長い修行が必要です。順番に進めばよいのです。最初は見解を破るところからです。すべての見解がいい加減な幻覚であると発見するのです。目覚めてみるのです。 我々の心は、どれほどの見解・信仰・迷信・思考・哲学などで抑えられていることでしょうか? 心はくたくたです。何の自由もありません。人々は、お祈りするわ、祈祷するわ、除霊してもらうわ、占ってもらうわ、パワースポットを巡って宇宙の力を入れてもらうわ、風水・方位学に凝るわ、特定の信仰がないわりにすべての宗教が同じ真理を語っていると思ってどんな宗教にも敬意を抱いたり脅威を感じたりするわ……、きりがないのです。こんな生き方は、自由な生き方でも安らぎの生き方でもありません。貪瞋痴に、渇愛に、徹底的に束縛されている生き方です。見解の爆撃を受けているために、人間はみじめに生きているのです。【アルボムッレ
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2025年12月11日読了時間: 1分
なぜ見解が悪いのか
なぜ見解が悪いのか 概念は、都合により自然に起こる捏造です。存在欲があるから、生きていきたいから、データを捏造するのです。炊いた米を「おいしいご飯だ」と捏造すると、欲が生まれる。ネズミの死骸を「不潔で気持ち悪い」と捏造すると、怒りが生まれる。牧草を「ただの草ではないか」と捏造して無関心な態度をとると、無知が生じる。このような概念を掻き回すと、貪瞋痴がなおさら強くなります。見解という幻覚になるのです。 捏造はやめられません。ネズミの死骸が気持ち悪いと捏造した人に、「でも、カラスにとってはね、それはご馳走ですよ。気持ち悪くないんですよ」と教えてあげれば、その事実を理解することができます。しかし「私がこの世で死んでも天国で永遠の命になります」という幻覚に陥った人をどのように諭せばよいのでしょうか。お手上げです。私は神に創造された唯一大事な存在ですよ、という幻覚に陥っている人を、どのように目覚めさせればよろしいのでしょうか? 見解をつくる人々は、激しい貪瞋痴に束縛されています。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013
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2025年12月10日読了時間: 1分
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