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札幌仏教塾
理論を実証することはできるのかと調べる
論を実証することはできるのかと調べる 仏教を学ぶと、ブッダの教えは正しい、真理が説かれているのだと、理解できます。それは知識的に納得しているだけです。自分で確かめたわけではありません。このような納得を、「信saddhā」と言います。科学の世界でも、さまざまな真理をまず「理論的にあり得る」と発見します。数学的にもそれは可能であると証明します。しかし科学的な事実の真理になっていません。確かなデータを集めて実証しなくてはいけないのです。論理的に数学的に立証されても、科学的な事実としては不充分です。論理的に数学的に納得した科学者が、さらに科学的な疑を持ってデータを調べます。理論を実証することはできるのかと、調べるのです。仏道においてもプロセスは同じです。ブッダの教えを学んで、議論して、他の教えと比較して、ブッダの教えが正しいとまず納得します。その人はそれから、実践して実証しなくてはいけません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p100】
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1月28日読了時間: 1分
疑は預流果の悟りに達するとき根絶される
疑は預流果の悟りに達するとき根絶される 預流果の悟りに達するとき、疑という煩悩が根絶されるのです。分かりやすいので、疑の説明をまず註釈書に沿って書きます。三宝に対する疑、四聖諦に対する疑、因果法則に対する疑、無常・苦・無我に対する疑、仏道に対する疑、輪廻に対する疑、業の法則に対する疑です。表面的に見ると「仏教を疑っては駄目ですよ」というようなPR 文句にも似ています。 少々詳しく解説します。疑とは煩悩です。悟りに達していない限り、一切の生命にあります。三宝を疑っている、などの解説では、充分な説明になりません。なぜならば、仏教徒は三宝を疑いません。輪廻も業も真理として認めます。それなら教えを学んだ仏教徒には、疑がないことになります。しかし疑という煩悩は、預流果の悟りによってなくなるものです。ですから、仏教知識においては一流の人であっても、疑の煩悩があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】
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1月27日読了時間: 1分
「疑」と呼ぶ煩悩を越える
「疑」と呼ぶ煩悩を越える では、ヴィパッサナー実践者が越える疑とは何でしょうか? 仏教を理解して実践に励んでいますから、修行者には精神病的な疑はありません。曖昧・中途半端な性格で、無知から生まれる疑もありません。また、真理を自ら確かめたいという理性的な疑を捨てたら、困ります。修行者が乗り越える疑は、不善心所の一つである疑心所です。一般的に言えば、「疑」と呼ぶ煩悩を越える、ということになります。この説明では、「なくす」ではなく、あえて「越える」という言葉を使っています。この智慧の段階では、疑という煩悩がなくなるのではありません。機能停止するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】
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1月26日読了時間: 1分
理性的疑rational doubt
理性的疑rational doubt 世間の話、伝統、神話、普通に知識というもの、などなどを無批判的に認めたくない人々もいます。認めるためには、証拠を要求する。また、自分で調べたり、確かめたりする。これも疑なのです。しかしこのタイプの人々は、事実を探すのです。ただ、世間に騙されたくないだけです。これは理性的疑rational doubt です。または科学的な疑とも言います。このタイプの人々は、さまざまな事実を発見して世に貢献します。無知から出る疑ではなく、事実を知りたいという気持ちから現れる疑です。疑というよりは、探究心です。科学者・研究者・知識人が持つべき疑なのです。このタイプの疑は、お釈迦様も大いに賛成します。お釈迦様自身も、自分で調べて確かめない限りは、人の話に無批判的に乗ることはなさいませんでした。この性格があったからこそ、真理を発見して悟りに達することができたのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】
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1月25日読了時間: 1分
疑とは何?
疑とは何? ヴィパッサナー瞑想の悟りの智慧の四番目は、kaṅkhāvitaraṇa 度疑清浄です。 ここでは一行で説明していますね。「その名色の縁の把握を度疑清浄という」。それしか説明していません。Kaṅkhā は疑い、vitaraṇa は渡る、という意味です。つまり、疑で悩んでいる状態を越えることです。これもヴィパッサナー実践により修行者が得る智慧の一つです。疑というといろいろです。 誰でも疑う、誰のことも信頼しない、という精神病に属する疑もあります。性格的に、人の話に乗らない人々がいます。その人々は、人の話を聞こうとも理解しようともしません。「大したことではないでしょう」という先入観を持って生きています。これも疑です。無知から発生するのです。 曖昧・中途半端に生きる。自分ではどうすればよいのか分からない。だからといって、人の話に乗って行動する勇気はありません。これも性格的な疑です。無知が原因です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】
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1月24日読了時間: 1分
智慧が現れる過程を七つに分ける
智慧が現れる過程を七つに分ける 当然、ヴィパッサナー実践も日常でおこなうものではないので、修行中、変わった経験が起こり得ます。しかし修行者は、それに執着もしない。解釈もしない。そのまま確認して放っておきます。そして、智慧が現れることを期待します。脳の捏造機能を破るために精進するのです。智慧が現れると、先入観が一切なくなると、ありのままの事実が観えるのだ、というスタンスです。 ありのままの事実とは、無常・苦・無我・因縁法則です。言葉を変えると、四聖諦になります。しかし最初から仏教の概念を頭に入れておくと、それも先入観になります。無常を発見するのではなく、発見した気分になってしまう恐れもあります。無常は事実なので、その気分に陥りやすいのです。ですから智慧が現れる過程を七つの段階に分けて解説しているのです。見清浄とは、その智慧の三番目です。何かを経験してびっくりした、感動したではなく、具体的にものの見方が変わった、性格が変わったのです。ある程度は心が清らかになったのです。 人格は勝手に改善されます。それは法則です。修行者はひたすら確認作業だけを続けま
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1月23日読了時間: 2分
神秘体験を得ることは目的でない
神秘体験を得ることは目的でない 例えば瞑想中、普通とまったく違った光を体験したとします。脳に起きた現象なので、否定する必要はありません。しかし「したがって、人の魂はまぶしく輝く光である」という哲学は駄目です。そのように言うための証拠はありません。長部経典の第一『Brahmajālasuttanta 梵網経』では、このポイントが明確に語られています。瞑想中、何を経験するか、分かったものではないのです。しかもその経験は、修行者の文化、教育、信仰、洗脳、マインドコントロール、人の影響などによって変わります。真理を発見するために役に立つものではありません。かえって邪魔です。 ヴィパッサナー実践は、瞑想のこの弱点を解決しています。先入観などが割り込むことはストップします。思考さえもストップしようとするのです。ありのままに観察するのです。何か経験すること、神秘体験を得ることは、目的ではありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p97
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1月22日読了時間: 1分
刷り込まれた概念が現実のように現れる
刷り込まれた概念が現実のように現れる 宗教は信仰を大事にする教えです。実証することが不可能な、魂、神、仏、如来、真我などの概念をまずまじめに信仰します。それから、その信仰対象を実証する目的で瞑想するのです。瞑想がうまくいけば、修行者の頭に刷り込まれた概念が現実のように現れてしまいます。修行者にとっては実体験に感じますが、それが幻覚か本物かを区別する方法はありません。 瞑想に関するこの弱みを、お釈迦様は充分に知っておられました。お釈迦様は人の瞑想体験を否定なさいません。しかし、その体験に基づいてつくる思考を否定されます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p96】
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1月21日読了時間: 1分
頭の中を先入観から解放しておく
頭の中を先入観から解放しておく ヴィパッサナー瞑想以外の瞑想では、何かを体験することを期待します。日常の五感から得る体験でないことは確かです。瞑想という、普通の生き方と違ったことをおこなっているので、日常と違った経験が起こることも決して不思議ではありません。ですから皆、簡単に「神秘体験」と言うのです。しかし神秘というほどのことではありません。「変わった体験」と言った方がよいかもしれません。 体験は二種類です。一つ目は、最初から頭に叩き込んだ概念を脳が現象にしてしまうケースです。脳がつくる幻覚ですが、本人にとっては目の当たりに起きた本物の体験として感じます。二つ目は、実体験です。要するに、体験したことが本物、ということです。そのためには、頭の中を先入観から解放しておかなければいけません。洗脳やマインドコントロールから解放しておかなくてはいけない。これは決して楽な作業ではありません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p96】
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1月20日読了時間: 1分
見清浄とヴィパッサナーの特性
見清浄とヴィパッサナーの特性 お釈迦様の説かれたヴィパッサナー瞑想も、後に現れた仏教の瞑想も、ヒンドゥ教の諸宗派で教えられているヨーガ瞑想も、表面的にはそれほど差がありません。ヴィパッサナーでは、実況中継という言葉を使用します。他の瞑想では、何か決まったフレーズをかならず使います。「何の思考もせず、ただ座るだけだ」という禅の瞑想は、論理的に間違ってはいませんが実行しにくいです。実行不可能なら、結果も現れない恐れがあります。ヴィパッサナー実践、サマタ瞑想、ヨーガ瞑想、いずれも瞑想という言葉を使って言われるこれらは、思考が暴走することにブレーキをかけるものです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p96】
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1月19日読了時間: 1分
現象が自然にnāma とrūpa に観えるか
現象が自然にnāma とrūpa に観えるか 見清浄という智慧は、現象をnāma とrūpa に区別して観ることのできる能力のことです。修行者にとって、現象が自然にnāma とrūpa に観えるようになっているなら、見清浄に達しています。このポイントは自己チェックになります。仏教は「自ら確かめる教えである」と釈尊が説かれます。それは、智慧が現れたか否かは自分でチェックしなくてはいけないからです。この場合の自己チェックとは、すべての現象をnāma とrūpa という二つに区別して観られる能力がついたか否か、ということです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】
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1月18日読了時間: 1分
人の生き方を正そうとする自我はない
人の生き方を正そうとする自我はない 人は、自分の感情に他人にも乗ってほしがるものです。共感してほしがります。しかし、見清浄に達している人には、周りの感情に共感する気持ちが起きません。道徳的な生き方には共感しますが、感情的な生き方に共感する気持ちはなく、冷静にいます。人の生き方を正してやらなくてはいけない、というような自我もありません。このような性格変化は、修行する本人だけではなく、周りにいる親しい人々にもよく分かります。しかし性格が変わったことだけでは、充分な判断材料になりません。ヴィパッサナー実践で智慧の開発が起きなくてはいけません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】
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1月17日読了時間: 1分
今まであった先入観は自動的になくなる
今まであった先入観は自動的になくなる Nāma とrūpa を発見すれば、「自分がいる」という今まであった先入観・見が、自動的になくなります。当然これは、見の清浄です。修行者のものの見方は、自分の発見によって変わるのです。「私はいるのではない(実体として存在するものではない)。Nāma とrūpa の流れなのです。その流れに世間の言葉として『私』と言うだけです。私がいなければ、他人もいるはずはない。他人というのは、同じnāma とrūpa の流れです」 このように、ものごとがnāma とrūpa の流れとして見えるようになったならば、見清浄に達した、ということです。 また、いろいろ性格的な変化も現れます。自我・自分という気持ちがnāma とrūpa のはたらきに変わったので、感情の揺らぎはほぼなくなったようになります。道徳は自然に守れます。破りたい気持ちはなくなったような気がします。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】
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1月16日読了時間: 1分
「自分」はあると思うのは見diṭṭhi
「自分」はあると思うのは見diṭṭhi もし人に「自分・自我」という何かが存在するならば、人の人生は曖昧で、中途半端で、いい加減で、感情の波に揺らいで、読み取れない状態にあることが普通になります。どうすることもできません。しかし「自分」は存在するのかしないのかを調べたことはないのです。あると思っています。それは仏教用語で「見解・見diṭṭhi」と言います。見という字を使っていますが、その実は邪見です。ヴィパッサナー実践では、ありのままに現象を観察することで、この問題を解決します。自分・自我を探すという固定概念を使いません。ただ、その都度、起こる現象をそのまま観察していきます。やがて「自分」という存在を構成しているnāma とrūpa という二種類のエネルギーの流れを発見するに至ります。それが普遍的な真理であると、さらに発見するのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】
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1月15日読了時間: 1分
自我に要求される
自我に要求される 行動について、もう少々、説明が必要です。人は道徳を守ったり守らなかったりします。優しい言葉を語ったり、乱暴な言葉を使ったりもします。他人に親切な態度をとったり、不親切になったり、他を攻撃したり、他を無視したりもするのです。人には、一貫して正しく管理された生き方はありません。このように激しく揺れ動く生き方をするのも、自我のせいです。その都度その都度、自我に要求されるような生き方をするのです。嘘をついてはいけないと分かっているのに、自我が「嘘をついて自分を守れ」と命令すれば嘘をつきます。道徳を守ろうとがんばる人も、この世に結構います。しかしその人々は、自分の自我と対立しなくてはいけません。自我を抑えられるならば、道徳も守られます。自我を抑えられなくなった瞬間で、道徳は破れてしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】
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1月14日読了時間: 1分
見清浄に達したか自己チェック
見清浄に達したか自己チェック どんな人でも、自我・自分という前提に基づいて生きています。すべての世界を、自分を中心にして認識します。他の生命との関係も、自分を中心にして結びます。自分の生き方・行動にしても、「自分」が中心です。自分は存在の中央管理局です。自分とは、いとも簡単に自我に化けるものです。皆の自分が、すでに自我に化けているのです。結果として、「中央管理局」が中央トラブル局になっています。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】
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1月13日読了時間: 1分
普遍的な現象であると発見する
普遍的な現象であると発見する 「確認する現象の普遍性を発見するように」というのは、『念処経』のアドヴァイスです。そのやり方とは、① ajjhatta(内)、② bahiddhā(外)、③ ajjhattabahiddhā(内と外)という三ステップで観察するというものです。 具体的な例で説明します。硬さ・重さという本質を持つ地色を発見したとしましょう。自分の身体が地色で構成されていることに集中します。身体の一部が硬いと発見したかもしれませんが、よく集中すると、硬さは身体の至るところにあるのだと分かります。次に、座っている座布団や着ている服などにも同じ硬さというはたらきがあることを発見します。周りにいる人々の身体も、同じ構成であると発見します。それから、すべての物質たる現象には、硬さという色があることを認識するのです。それで地色を客観的な真理として見ていることになります。自分だけの主観的な感想ではなく、普遍的な現象であると発見するのです(現象に対する無常・苦・無我の発見は、この普遍性に達してから起こります)。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践
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1月12日読了時間: 1分
心の中にも心所の変化が起きている
心の中にも心所の変化が起きている 例えば修行中、身体が岩のように重くなったり硬くなったりすれば、びっくりしますね。しかし、びっくりしてはいけません。冷静に、硬さ・重さに集中して実況するのです。これは地色の観察です。もしかすると修行者はこのように気づいてしまう可能性があります。言葉にしてみるとこんな感じです。「いやいや、身体が岩になるはずはない。重くなるはずもない。心が硬さ・重さを認識しているのです。その認識と同時に心の中にも心所の変化が起きているのです」。このように気づいたならば、nāma を発見していることになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p93】
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1月11日読了時間: 1分
集中力が物質からnāma に自然に引っ越しする
集中力が物質からnāma に自然に引っ越しする Nāma が一向に分からない、という感じがあっても、構いません。そのときは、よく分かる色のみを観察し続けるようにと、『清浄道論』はアドヴァイスします。そのうち、nāma も勝手に出てきます。勝手に現れてきたら、nāma に集中して確認を続けます。 これは、それほど難しい作業ではありません。修行中、確認する妄想・雑念・怒り・欲・混乱・眠気・怠けなども、結局はnāma なのです。実況中継する修行そのものも、nāma のはたらきです。見る、聴く、嗅ぐなどの行為の場合も、nāma がその認識作用を起こしています。Nāma の発見は決して難しくはありません。ただ自分の集中力が物質からnāma に自然に引っ越しするまで、待つ必要があります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p92】
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1月10日読了時間: 1分
rūpa とは自分の肉体
rūpa とは自分の肉体 Rūpa とは自分の肉体のことです。肉体は五蘊の色蘊として観察することも可能です。地水火風という四大色を観察してもよいです。修行者に、身体が硬い、重い、という感覚が生まれます。そのとき、その硬さ、重さを観察します。これは「地」という色です。地に集中してみると、前に説明した七つの側面からいくつかの側面を当てはめることができるようになります。時には身体が全体的に液状になったような気がします。または身体の中に流れているさまざまな液体が気になってしまいます。これは「水」という色です。身体という物体が、揺らいだり、動いたりする感覚に気づいたら、「風」という色になります。身体の熱に集中すると、「火」という色です。決まりはなく、自分の心が勝手に発見する現象に気づくのです。無理にnāma を発見しようとはしません。そうすると捏造機能がはたらき出して、正しい修行経験にならないからです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p92】
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1月9日読了時間: 1分
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