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札幌仏教塾
出家戒律④ paccaya-sannissita-sīla「資具に依止するという戒」
出家戒律④ paccaya-sannissita-sīla「資具に依止するという戒」 四番目はpaccaya-sannissita-sīla です。「資具に依止するという戒」と訳されていますが、「資具に関する戒」と理解しておきましょう。資具とは衣・食・住・薬のことです。在家・出家を問わず、命を繋ぐために欠かせない四つです。俗世間では資具を得る行為が暴走しています。食文化は把握できないほど広いです。服やアクセサリーについても同じことです。住居も派手な建築文化になるまで暴走しています。また、医療の発展にしても、専門家にも追いつけないほど暴走しています。その理由は、「欲は満たせない」ことです。皆、欲を満たそうとしているのです。しかしそれは、喉が渇いたら塩水を飲むような行為です。飲めば飲むほど渇きが増すのです。ですから限りのない自然破壊、生命破壊の生き方になってしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p70】
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2025年11月25日読了時間: 1分
出家は常に無執着の精神を保たなくてはいけない
出家は常に無執着の精神を保たなくてはいけない 律蔵には、生き方にかかわるたくさんの戒律項目があります。お布施を目的に説法すること、布施をいただくために祈祷をすること、自分がまじめに修行しているのだと言いふらして信者の気持ちを引くこと、在家の間の使い走りをしてあげることなどは禁止です。要するに「楽に生きられるように、私に布施が入ればいいなあ」と思うこと自体が禁止なのです。 とはいっても、出家比丘たちは苦しい生活をしているわけではありません。在家仏教徒たちも、理性のある立派な方々です。仏教は基本的に品格のある生活を要求します。ですから在家の方々は、出家者に苦労をさせません。気持ちよく、また気楽に修行できるように協力し、出家者にみじめな生活をさせません。仏教を教える伝道活動を気楽にできるように、惜しみなく協力してあげるのです。ですから出家は、この落とし穴に陥りやすいのです。常に無執着の心で布施をいただくよう、努めなくてはいけません。慈しみの気持ちは欠かせません。「裕福な信者さんたちがいる。お陰で裕福な出家生活ができる」という気持ちになったら、ājīva
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2025年11月24日読了時間: 2分
在家が高い徳を積む
在家が高い徳を積む もし在家信者が、自分たちが徳を積むために、また出家の修行に協力してあげるために、料理を作ってお布施するならば、それは慈しみに基づいていただきます。在家が衣の面倒を見てくれるならば、慈しみに基づいていただきます。住むところを造ってくれるならば、あるいは病気になったときに薬をくれるならば、いただいても構わないのです。それによって在家が高い徳を積むのです。ですから布施をいただくことは、出家の無執着の慈しみのおこないでなければいけません。慈しみの気持ちがなく、「よかった。いいものをもらいました」という気持ちになったならば、心が汚れたということです。煩悩が牙を剥いたのです。それで生計を立てたならば、汚れた生き方になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p69】
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2025年11月23日読了時間: 1分
生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為
生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為 人が生きるとは、自然破壊をすることです。いくらがんばっても自然破壊を避けられません。また、生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為です。これも避けられません。生きていきたいと思うならば、それは自然と他の生命に対する破壊行為・迷惑行為になります。しかし出家は、この矛盾から脱出することができます。托鉢に出て、人がすでに調理した残り物の食べ物をいただいたならば、その出家が食べる分で自然破壊したことにはなりません。樹の下や空き家で夜を過ごすならば、住居を造るために自然破壊する必要はありません。人が捨てた服を拾って縫い合わせて衣を作れば、自然破壊したことになりません。病気になったら、仔牛たちの尿を取って飲めば、薬を調合するために自然破壊したことになりません。この生き方は、出家の基本です。「かならずこのとおりに生きなさい」という強制ではありません。それでは仏道の中道が壊れて、極端な道であると説かれた苦行の道になります。あくまでも基本です。出家はこの基本を憶えておくのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第
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2025年11月22日読了時間: 1分
出家は仕事をしてはいけない
出家は仕事をしてはいけない出家の仕事は何でしょうか? 出家は仕事をしてはいけないのです。仕事をするとは、命を守るために何かの行為をすることです。生きる目的でおこなう行為です。解脱を目的に出家したならば、生きる目的を目指せないのです。この二つの目的は正反対です。しかし、解脱に達するまで生きていなくてはいけません。死ぬことは解脱ではないのです。死ぬ前に、煩悩を根絶して解脱に達しなくてはいけないのです。解脱を目的として出家した人は、その目的に達するまで生きている必要が生じます。それは、生きていきたいという生存欲ではありません。ただ否応なしに、生きていなくてはいけないことになっただけです。 とはいっても、命を繋ぐためには着るものと食べ物が必要です。住むところと病気にかかった場合の薬も必要です。在家はそれらを、仕事を通じていただきます。それに対して仕事をしない出家は、在家のお布施に頼るはめになるのです。しかし、お布施に頼ることは仕事をするより簡単であると誤解してはいけません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p
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2025年11月21日読了時間: 1分
出家戒律③ājīva-pārisuddhi-sīla「生活の清浄という戒」
出家戒律③ ājīva-pārisuddhi-sīla「生活の清浄という戒」 三番目はājīva-pārisuddhi-sīla です。「生活の清浄という戒」と訳します。生活にかかわる戒律です。生活することによって、心が汚れないように気をつけることです。要するに、汚れた生活はいけない、ということです。 この説明だけでは理解できないと思います。「仕事」という言葉を中心にして考えてみましょう。在家の方々は仕事をして生計を立てています。もしその仕事が罪を犯すことになるならば、法律を犯すことになるならば、世間常識を破る行為になるならば、簡単に言えば「悪いことをして金儲けをしている」ということになるでしょう。例えば、麻薬を販売すること、武器を密輸して販売すること、インチキ薬を派手に宣伝して販売すること、などです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p68】
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2025年11月20日読了時間: 1分
出家戒律② indriya-saṃvara-sīla「六根の制御」
出家戒律② indriya-saṃvara-sīla「六根の制御」 二番目はindriya-saṃvara-sīla といいます。眼耳鼻舌身意という六根を制御するのです。見たい放題見たり、聞きたい放題聞くのではなくて、見ても、心の中で欲と怒りが生まれないように気をつける。音を聞いても、心の中で欲と怒りが生まれないように、混乱しないようにガードする。ご飯を食べても、そのおいしさで欲か怒りが生まれないようにガードする。心の安定を守る。そういう戒律です。 このセクションは、瞑想実践に励む在家の方々もいくらか注意した方がよいところです。修行中、眼から、耳から、鼻から、口から入る情報に心が揺らいでしまったら、誘惑されてしまったら、修行を中断するはめになります。眼耳鼻舌身に入る色声香味触という情報によって、心にいとも簡単に欲か怒りが現れてしまうのです。感情が牙を剥いたことになります。在家の方々も解脱を目指して修行する場合は、修行中、この戒律を守るように精進した方がよいです。気づきの実践をしているならば、自然にこの戒律を守っていることになります。【アルボムッレ
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2025年11月19日読了時間: 1分
出家戒律は四種類
出家戒律は四種類 出家の場合、戒律は五戒・八戒などではありません。全面的に心の感情を攻撃しなくてはいけませんから、戒律項目は膨大です。しかし、その膨大な項目は四種類に分けられていますので、守ることはそれほど厳しくありません。 出家戒律① pātimokkha-saṃvara-sīla「完全に防護する」 一番目はpātimokkha-saṃvara-sīla です。Pātimokkha は、「完全に防護する」という意味です。この戒律項目を守れば、修行者は解脱に達するまで完全に防護されるのです。煩悩が牙を剥いて心を汚し、修行を中断に追い込むようなことはさせません。パーリ律蔵の比丘戒では、二百二十七項目の戒律がpātimokkha-saṃvara-sīla になります。出家する方々には、最初にpātimokkha-saṃvara-sīla を守る方法を教えます。在家の方々がそれを学んでも知識が増えるだけで実践はできませんから、ここで説明する必要はないと思います。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p67】
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2025年11月18日読了時間: 1分
人格者に戒律の必要なし
人格者に戒律の必要なし お釈迦様が項目戒律を定めたのは、悟りを開いて二十年経ってからです。そのとき、お釈迦様は五十五歳でした。そこまでは戒律項目が一つもないまま、仏教が世に広まっていきました。それでもたくさんの人々が、解脱に達しました。出家解脱者も、悟りに達した在家の方々もたくさんいました。 この現象も理解しておいた方がよいです。最初にお釈迦様に出会ったのは、皆、人格的に立派な方々でした。ブッダの教えはそれほど知られていませんでしたし、その内容も一般常識を超えたものでした。ですから、興味のある人々が、わざわざお釈迦様を訪ねて教えてもらったのです。最初の弟子たちは、仏弟子になる前から出家者でした。その方々が入っていた宗教組織の行儀作法なども、すでに身についていました。ですから、「行儀よくしなさい。殺生したり嘘をついたりしてはいけない。邪な行為をやめなさい」などと言う必要はありませんでした。また、当時も生活目当てに出家生活を始めた人々は当然いましたが、そういう人々は精神を清らかにすることに興味がなかったので、釈尊を訪ねることはありませんでした。 この
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2025年11月17日読了時間: 2分
在家戒律
在家戒律 在家にとっての戒律はどうでしょう。在家の仏教徒も解脱を目指します。仏教を実践しなくてはいけないのです。しかも同時に、在家生活も営まなくてはなりません。というわけで、戒律は五項目に集約されています。それはみなさんが知っている五戒です。瞑想実践に入る場合は、修行中なのでいったん在家生活を中止しています。その場合は、八戒か十戒を守ります。 戒律を守ることで、品格のある人間として生きられます。感情を制御しているので、優れた善行為をしていることにもなります。罪を犯さないで生活することができます。社会の中で問題を起こさないので、安心して生きられます。そのような理由から、瞑想実践しない仏教徒も在家戒律を守る努力をするのです。 戒律とはまともな社会人として生きることであると理解するならば、それは宗教的な特別な行ではないことが分かります。しかし一般的には、「戒律」という言葉を聞いただけで敬遠する気持ちになります。要するに、守りたくないのです。これは根本的な煩悩の症状です。生命は自分の感情のままに生きていきたいのです。感情のままに生きることが反社会的な行動
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2025年11月16日読了時間: 2分
戒律はお釈迦様の解決策
戒律はお釈迦様の解決策 仏典を読むと、お釈迦様がしぶしぶ戒律項目を定めていったことがよく分かります。「戒律項目がなかったときは、たくさんの弟子たちが解脱に達しました。今、たくさん戒律項目があるが、解脱に達する弟子たちの数はずいぶん減りました」とこぼしたこともありました。お釈迦様は戒律項目を定めるたびに、戒律の目的を明確にしていました。繰り返し繰り返し、それを述べるのです。しかし、目的は一項目です。弟子たちが、戒律の目的は煩悩に牙を剥くチャンスを与えないことであると理解しておけば、一億に近い戒律項目も負担にならずに済みます。 ブッダは涅槃に入られる前、「如来が涅槃に入ってから、些細な戒律を適宜に無視してもよい」と説かれました。しかし仏弟子たちには、些細な戒律とは何かと決めることはできません。その基準はないのです。仏弟子たちはこのように決めました。「釈尊の説かれた戒律を犯すことも、説かれていない戒律を設定することも、ブッダの教えの衰退の原因になると、釈尊が忠告なさったのです。ですから、些細な戒律の改良もやめて、釈尊の定められた戒律項目をすべて、これか
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2025年11月15日読了時間: 1分
「心を汚してはならない」という一項目
「心を汚してはならない」という一項目 他宗教でも項目戒律があります。厳密に戒律項目の数を決めることは不可能であるにもかかわらず、十戒などの戒律を断言するのは問題です。しかし、宗教家たちは自分勝手に、時代の要求に応じて規則を作ります。それに反対する人々も現れます。そして宗教組織としての調和が乱れて、分派してしまいます。 社会も戒律項目を決めています。どんな社会であっても、その社会において「あってはいけないこと」があります。政府も法律という戒律項目を決めます。また、各家族にも、家族の決まりというものがあるようです。学校には校則があり、会社には社則があります。守らなければ、社会の一員としての自分の地位が危ういものになります。このような規則は、社会の秩序と繁栄を目指して定められるものです。これらの規則の数も、無数です。憶えるのは大変です。実際には誰も憶えていません。しかし皆、法律と規則を守って、なんとか無事に生きています。 日本の社会では、無数にある規則を「他人に迷惑をかけてはならない」という一項目に見事にまとめています。同様に、仏教の場合は、「心を汚し
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2025年11月14日読了時間: 2分
仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない
仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない 次の問題は、戒律項目は誰が設定するのか、ということです。誰にその権利があるのでしょうか。解脱を目指す仏教の場合は、これは問題になりません。感情を砕くために戒律項目を設定するので、感情を砕き終わった人には、同じ目的を目指す人々に戒律項目を定める権利があります。仏教の場合は、お釈迦様の独占権になります。たとえ阿羅漢になった聖者であろうとも、初めはお釈迦様の弟子なのです。智慧を完成し、煩悩を根絶したお釈迦様が定めた戒律項目は、文句を言わず守らなくてはいけません。 大きな戒律項目ではなく細かい戒律項目の場合、例えば「走ってはならない」などは、心に影響を与えない可能性があります。それで調子に乗って細かい戒律を無視すると、師匠である釈尊を無視した、冒瀆したことになるのです。これが解脱の大きな障害になります。というわけで仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない、ということになっています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p63】
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2025年11月13日読了時間: 1分
項目戒律の存在意義
項目戒律の存在意義 戒律が必要とされる理由は、自分の精神状態をチェックする能力が皆にあるとは言えないからです。ですから、戒律・規則をいちいち項目として設定して教えてあげなくてはいけなくなったのです。 例えば、「殺してはならない」という項目が設定されています。ある人に怒りが湧き上がったとしましょう。自分の怒りの感情に気づかず、相手が悪いと思うばかりです。殺意も起きます。しかし、規則を守らなくてはいけないので、相手を殺すことをやめます。それで湧き上がった怒りは目的に達することができなくなります。またその人に、怒りによる殺意ではなく、相手を侮辱したいという意志が生まれたとします。この場合は「他を侮辱してはならない」という規則が対応します。その人がその規則を守る気になっているならば、罪を犯さずに済むのです。品格は守られます。 この段取りを考えると、項目戒律はかなり厄介なものであると理解できます。貪瞋痴の感情が湧き上がったら、人は何をするか分かったものではありません。人が罪を犯すたびに、戒律項目を設定しなくてはいけないのです。これは終わりのない作業になりま
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2025年11月12日読了時間: 2分
制御された生き方が感情の邪魔をする
制御された生き方が感情の邪魔をする 問題は、無知の感情が湧き上がったらどうするのか、ということです。感情は無知なので、当然、それに気づくことはできません。そこでまず、欲と怒りの感情に従わないように生きてみます。すると、無知にも気づけるようになります。頭が混乱した状態に陥ったとき、判断能力を失ったとき、なんにも集中できないとき、私たちは無知に支配されています。そのときは、何もしゃべらず、何もおこなわず、冷静な気持ちに戻るまで黙っていればよいのです。品格を問われる過ちは犯さずに済みます。 このように自分の心の状態(精神状態)をチェックしながら生き方を制御するのが、戒律を守って生きることなのです。戒律は、貪瞋痴がはたらかないように邪魔する生き方です。これで解脱に達する道がスタートします。自分の制御された生き方が感情の邪魔をすると、感情が弱くなっていきます。これが仏教心理学的な戒律の説明であり、実践方法です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p62】
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2025年11月11日読了時間: 1分
品格のある人間として、生きてみる
品格のある人間として、生きてみる 解脱に達する人々は、感情(千五百煩悩)を根絶するのです。仏教の戒律とは、煩悩を砕く過程の第一歩です。 仏教の戒律は心理学的な実践方法であり、決して宗教的なしきたり・儀式ではありません。このことを理解するのはいたって簡単です。怒りが湧き上がったとしましょう。その感情が心と身体を支配するのです。怒りが人にしゃべらせる。そのとき、まともな社会人として発してはいけない言葉を発してしまいます。怒りが行為をさせる。そのとき、まともな社会人としておこなってはいけない悪行為をしてしまいます。ここで戒律を守るのです。戒律を実践したいと精進する人は、悪語を話したいが話さないことにする。自己を制御する。悪語といえば、妄語(嘘)・粗悪語(乱暴語)・離間語(噂)・綺語(無駄話)という四種類です。 欲の感情が湧き上がったときも、怒りのときと同様に自己制御します。これが戒律を守るということです。要するに、まともな社会人として、品格のある人間として、生きてみることです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ201
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2025年11月10日読了時間: 1分
解脱に不可欠な戒律
解脱に不可欠な戒律 戒律とは、何かの宗教を信仰する場合に守らなくてはいけない規則であると一般的に知られています。仏教は解脱を目指す教えです。その目的に達するために欠かせない基本的な規則が、仏教の戒律なのです。解脱は、心の成長と智慧の開発によって現れるものです。ですから、仏教の戒律は心理学的な規則であると言っても過言ではありません。戒律を守ることによって、人格向上を目指すのです。 普通の生命は誰でも、感情の衝動で生きています。感情の大本は、無知と渇愛です。貪瞋痴という三つに分けることもありますし、千五百の煩悩だと言うときもあります。この煩悩が、我々を支配し管理しています。煩悩の種類によって、考えたり話したり行為をしたりするのです。ですから、気分次第で生きるのは危険です。何の成長も見込めません。感情に支配されると、理性がはたらかないのです。欲・怒り・嫉妬などの感情が湧いてきたら、人は何の躊躇もなく悪行為をします。悪を犯している人々も、ある程度、知識人です。世間の常識を知っています。しかし、感情に負けるのです。優れた知識人であっても、感情には勝てません
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2025年11月9日読了時間: 2分
七つの清浄
七つの清浄 ヴィパッサナー実践と解脱に関して、理解するべきポイントを項目だけ追ってきました。再び、最初の項目に戻る必要があります。それは七つの清浄です。 修行によって人は、人格的に向上します。心の汚れがなくなっていきます。智慧も徐々に現れてきます。このプロセスが、「七つの清浄」という項目で説かれています。これから詳しく、七つの清浄を解説します。同じ内容を繰り返しているわけではありません。これから本格的に、解脱を目指して修行する意欲を持っている行者がいるとしましょう。その方が解脱というゴールに達するためにどのように努力すればよいのか、という説明です。ですから、具体的に七つの清浄に達する方法を、これから説明することになります。七つの清浄の説明が終わってから、解脱に達するまでの智慧の順番の具体的な説明になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p61】
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2025年11月8日読了時間: 1分
解脱を三種類にしている
解脱を三種類にしている 修行者は実践している過程で、苦に気づいたり、無常に気づいたり、まれに無我に気づいたりもします。しかし修行が最終段階に入ると、無常・苦・無我の一つに集中するのです。いずれに集中するのか、ということは、その個人次第です。無理に、意図的に、一つを選ぶことはできません。ですから修行者は、無常を発見して解脱に達するか、苦を発見して解脱に達するか、無我を発見して解脱に達するか、いずれか一つになります。この差を説明するために、解脱を三種類にしているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p57】
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2025年11月7日読了時間: 1分
無常・苦・無我と無相・無願・空
無常・苦・無我と無相・無願・空 一切の現象の本来の姿は、無常・苦・無我です。真理とは、無常・苦・無我なのです。観察実践しない人々の認識は、合成された現象のみです。しかし、観察実践に成功すると、ありのままに観ることができるようになります。それで初めて、「一切の現象は無常・苦・無我だ」と発見するのです。お釈迦様は、無常・苦・無我を互いに異なった別々の概念としては説かれていません。 お釈迦様の説明の仕方は、次のようなものになります。「ものごとは、決して変わらないものだとするべきでしょうか、常に変わるものだとするべきでしょうか?」と問うと、問われた相手は「変わるものである」と答えます。そこで「変わるもの、一定しないものは、楽だとするべきでしょうか、苦だとするべきでしょうか?」と問えば、相手は「苦」だと答えます。「無常であり苦であるものは、私のアートマンである、私の真我である、これこそが自我であると、認めるべきでしょうか? 無我だとするべきでしょうか?」と問えば、相手は「無我」と答えます。このような対話では、無常・苦・無我とは現象の本来の姿であるということ
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2025年11月6日読了時間: 2分
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