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札幌仏教塾
六番目の行道智見清浄というステージ
六番目の行道智見清浄というステージ 五番目の道非道智見清浄のステージは、どんな修行者にとっても混乱の多い長い戦いになります。心は成長して智慧もある程度まで成長していますが、精神的に整理されてないような状態です。喩えで言えば、人が花屋さんでたくさんの花を買ったとしましょう。それを家に配達してもらって、ひとまずリビングに置きました。その瞬間、家の美的調和が壊れます。落ち着きがなくなります。置いたのは花ですが、たくさんゴミが溜まっているような気分です。問題は何なのでしょうか。花は自分が喜んで丹念に選んで買ったものです。ゴミではありません。しかしこれから、自分の能力をふるって花を活けなくてはいけないのです。それでしっかり落ち着いて、花を活けることにするのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p137】
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4月17日読了時間: 1分
まだ未完成だ。原始脳に繋げなくてはいけないのだと大脳が発見する
まだ未完成だ。原始脳に繋げなくてはいけないのだと大脳が発見する 理性に基づいて貪瞋痴のはたらきを一時的に抑えて、計画的に大脳をはたらかせたのです。それによって、今までと違った新たな神経回路システムが現れました。それから、その神経回路を原始脳にも繋げて、配線完了しなくてはなりません。それには新たに作った神経回路を適当に切ったり張ったりして、調整しなくてはいけません。ヴィパッサナーの障碍とは、そのとき起こる現象です。実は障碍ではないのです。心が苦労して育てた能力です。しかし「それだけでは充分ではない」と理解してほしいのです。さらに、配線を原始脳まで繋げなくてはいけないのです。「まだ未完成だ。原始脳に繋げなくてはいけないのだ」と大脳が発見します。それが障碍を乗り越えたことです。このプロセスさえも、もう一つの神経回路が生まれることなのです。 この状態は、仏教心理学で五番目の道非道智見清浄に達したことであると説かれています。仏教は心の科学であって脳科学ではないので、そのような説明になります。ここでは無理をして、現代の脳科学の知識の一部を使って説明してみ
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4月16日読了時間: 1分
大脳の配線を繋げて大脳が原始脳を管理する
大脳の配線を繋げて大脳が原始脳を管理する 一つも悪いものではないのです。がんばって作った配線です。しかし「配線ができた」と満足するのは危険です。原始脳を抑えてはいますが、原始脳を制御してはいません。そこで大脳の配線は長すぎるものをカットしたり、短いものを延ばしてみたりして、原始脳に繋げなくてはいけないのです。原始脳に繋げたら、大脳が原始脳を管理することになるのです。神経回路は使わないとなくなります。そのうち原始脳の司令を受けていた神経回路が壊れてしまいます。獣の支配は終わります。それで貪瞋痴が消えます。原始脳は大人しく、生命の基本的なはたらきを監督するようになります。例えば思考・判断能力の要らない消化システム、呼吸機能、心臓の動き、などなどです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p136】
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4月15日読了時間: 1分
大脳の配線を原始脳に繋げたら、大脳が原始脳を管理する
大脳の配線を原始脳に繋げたら、大脳が原始脳を管理する このように考えてみましょう。神経細胞がIC だとします。IC がたくさんあっても、何の仕事もしません。正しく配線すると、IC は仕事をします。私たちが日常使っているパソコンなどは、IC の塊です。しかしびっしり配線されています。だから正しくはたらくのです。神経細胞の場合は、細胞から配線が伸びていって他の細胞と繋がります。ほとんどの神経細胞から配線が出ています。それを適当に繋げてみるのです。しかし長い配線もあって、短い配線もあります。このアンバランスの状態でヴィパッサナーの汚れが現れるというわけです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p135】
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4月14日読了時間: 1分
三十七菩提分法は脳の正しい配線の仕方
三十七菩提分法は脳の正しい配線の仕方 お釈迦様のプログラムは必要な配線がかならず現れるようになっています。悟りに必要な能力は、三十七菩提分法であると説かれています。それは脳の正しい配線の仕方を示す話です。修行者は必死に修行しているのです。大脳もどんどん配線をしています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p135】
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4月13日読了時間: 1分
瞑想が進むと、惛沈睡眠が消える
瞑想が進むと、惛沈睡眠が消える 惛沈睡眠という煩悩があります。脳の成長を妨げる蓋だとも言われています。しかし常識的に見れば、健康に生き延びるためには睡眠が必要だとされます。しかし残念です。身体の細胞は寝ません。寝ることも存在欲の一つの姿です。瞑想が進むと、惛沈睡眠が消えてしまいます。それは大脳が新しい配線を作ったということです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p135】
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4月12日読了時間: 1分
脳の開発
脳の開発 お釈迦様は脳の開発方法を見つけられました。正しい配線方法を見つけたのです。目的は、理性のある、世界を知る能力のある、判断能力のある大脳を誘拐犯(原始脳)から解放することです。そのための方法を見つけたのです。 お釈迦様が説かれる道は、大脳にたくさん仕事を与えることです。その仕事は一つも、原始脳の司令と合いません。人が一度もやったことのない仕事です。それはsati 気づきの実践です。慣れた仕事をするより、慣れていない仕事をする方がたくさん仕事をしなくてはいけません。じりじりと原始脳と関係のない配線が現れてきます。それは智慧が現れることであり、ものごとをありのままに観察できるようになったことであり、感情に支配されないようになったことであって、自分でもそれがよく分かります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p135】
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4月11日読了時間: 1分
自分で自分を洗脳する
自分で自分を洗脳する 要するに、大脳が原始脳に誘拐されているのです。大脳は誘拐犯の言うがままに行動しているのです。それで大脳の配線が現れますが、ろくな結果にはなりません。人間は獣のままです。貪瞋痴に支配されて生きています。存在欲とはかなわない希望です。したがって、恐怖感(怒り)も消えません。いくら配線しても、問題はそのままです。生涯学習しても同じことです。この状況は大脳にとって耐えがたいストレスです。死にたくないという気持ちはあっても、人は死ぬのだと大脳の方では知っています。しかし認めたくはありません。そこで誘拐犯にいくらか落ち着いてもらうために、大脳はイカサマを仕掛けます。「私が死んでも、私の魂は死にません」「死後、我々を永遠の天国に連れていく絶対的な神様がいます」などなどの妄想をつくります。これで原始脳が落ち着きます。自分で自分を洗脳するのです。証拠は一かけらもないのに、魂の存在を信じる。絶対的神様、阿弥陀様、観音様などを信じる。信じる者は救われる、とも言います。実際は信じる者が救われるのではなく、信仰という麻薬で脳が機能低下するだけです。
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4月10日読了時間: 1分
原始脳にあるのは存在欲と恐怖感
原始脳にあるのは存在欲と恐怖感 原始脳は獣の脳だとも言います。原始脳に思考能力はありません。外の世界を認識する能力もありません。原始脳にあるのは存在欲と恐怖感です。外の世界・現実を知る能力がないから、仏教的に無知・無明だとしているのです。無知・無明を土台にしているため、存在欲と恐怖感(怒り)が起こるのです。それは有名な貪瞋痴です。原始脳は生まれるとき、配線は完了しています。よくはたらきます。この獣の脳が発信する信号で、大脳がはたらきます。生きていきたいという存在欲の信号を出すのです。大脳が必死になって、生き延びるためにがんばるのです。そして、人間がおこなう勉強・研究等々、すべての作業が、生き延びるという目的のために為されます。それから原始脳は恐怖の信号を出します。大脳は必死になって、存在に邪魔なものを避ける技を身につけます。細菌の退治の仕方だけではなく、同じ人間をライバルだとみなして人を殺す道具まで開発するのです。こうして原子爆弾も現れます。科学の進歩も大量破壊兵器の開発も、大脳がやっています。文化・文明も同じことです。生き延びることと敵を倒す
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4月9日読了時間: 1分
欠かせない能力が障碍になるとは?
欠かせない能力が障碍になるとは? よく調べてみると、十種類の障碍は一つも悪くないものです。必要な能力なのです。それでも、一歩間違えれば解脱の妨げになります。この状況を脳のはたらきを用いて説明します。 普通の人々は原始脳(獣の脳)の司令で生きています。大脳を優先にした生き方をしていません。原始脳は、生まれるときには神経細胞の配線がすでに完了しています。原始脳にはこれ以上、発達はありません。対して大脳は発達しないまま・配線ができていないままの状態で人は生まれます。生まれてから長い時間をかけて大脳を配線するのです。「生涯学習」とは人気のあるフレーズです。勉強には終わりがない、死ぬまでやりなさい、という意味です。このテーマで言い換えれば、死ぬまで大脳の配線をしなくてはいけない、ということです。それでも未完成のままで死んでしまいます。しかし、大脳の配線は決して終わらない作業ではありません。大脳の神経細胞は約百四十億個と推定されています。他の神経細胞も足してみると、千〜二千億くらいになるそうです。やり方さえあれば、配線を完了することはできると仮定しておき
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4月8日読了時間: 1分
解脱に達するより他の方法はないと発見するステージ
解脱に達するより他の方法はないと発見するステージ もう一つポイントがあります。五番目の道非道智見清浄のステージに達する修行者は、徹底的にnāma-rūpa を、無常・苦・無我の特性を発見できるまで観察しなくてはいけません。『清浄道論』では、たくさんの方法が説かれています。一つの方法をやってみたところで成果がなければ、他の方法を試してみるのです。明確に無常・苦・無我を発見しない限り、その真理は知識レベルで止まってしまいます。知識レベルとは、無知がよくがんばっている状態です。要するに、無意識的に常・楽・我という前提があるのです。 修行者は「解脱に達したい」という気持ちで修行を始めたのですが、それは知識レベルの判断なので、気持ちは本物であるとは言えません。途中で諦めて、修行を止めることも大いにあり得ます。しかし無常・苦・無我を発見したならば、道は決まります。解脱に達するより他の方法はないと、発見します。ですからこれは、非道と道を区別するステージなのです。ただ障碍を乗り越えるだけではありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻
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4月7日読了時間: 1分
障碍を乗り越える
障碍を乗り越える ここまで十種類の障碍と、それを乗り越える方法を説明しました。ヴィパッサナー実践者に現れる障碍は、一般的に言えば超越した経験です。超越した経験に達して、それが解脱だと思ったら、非道を道だと勘違いしたことになります。ですから障碍から脱出した修行者は、五番目の道非道智見清浄に達したことになるのです。要するに、解脱に達する一本の道に本格的に入った、ということです。 では障碍が現れなかったら、どうすればよいでしょうか? いいえ、かならず現れます。ですから乗り越える技を身につける必要があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p132】
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4月6日読了時間: 1分
「好き」を独り立ちさせてはいけない
「好き」を独り立ちさせてはいけない 「好き」はくせものです。欲に変身しやすいのです。執着に変身しやすいのです。このステージの修行者に、欲という不善心所は起こりません。しかし執着という煩悩は起こり得ます。修行そのものを好むことに対しても、気をつけなくてはいけません。「好き」を独り立ちさせてはいけないのです。 何かを好きになると、それをやりやすくなります。勉強が好きな人は軽々と勉強します。嫌いよりは好きな方が役に立ちます。しかし「好き」という現象も一つの心所であり、感情でもあります。それは無常・苦・無我です。このように観察して、この障碍から脱出するのです。また、ヴィパッサナー実践以外、他のことにまったく興味がないという状況は、表面的にはとても良いことであると理解してしまいます。それは興味が正しい方向へ変わっただけのことであって、解脱ではありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p132】
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4月5日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑩ 微欲nikanti
観察の汚れ:⑩ 微欲nikanti 微欲は発見しにくいです。これまでの九つの障碍には、それなりの理解があれば気づきます。それで障碍から抜けられます。しかし、nikanti はそれほど甘くありません。修行者は長い時間をかけて、観察の実践をしてきました。結構成長しています。智慧も現れています。ブッダの説かれた真理を自分の力で発見してもいます。ですから、この道(ヴィパッサナーの修行方法)は間違いなしです。これこそが歩むべき、実践すべき道なのです。当たり前のことです。これもまた、事実です。しかし、これが落とし穴になってしまうのです。自分でも気づかぬうちに、修行そのものが好きになっているのです。本当は、冷静な、さらに理性に基づいた修行に対する「好き」が必要です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p131】
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4月4日読了時間: 1分
度を越して落ち着いていると進歩がなくなる
度を越して落ち着いていると進歩がなくなる 冷静さupekkhā は必要です。Upekkhā が強くなればなるほど、人は落ち着きます。しかし、度を越して落ち着いていると、進歩がなくなってしまいます。 俗世間の立場で考えてみましょう。人は自分の状況を見て「これでよいのだ。私は満足だ」という気持ちになると、さらに成長するべきという意欲を失います。しかし「今の状況も悪くないが、もう少々、良くなるのも悪くない」と微妙に不満を持っていると成長します。修行者の心にも、このような問題が起きます。Upekkhā が強烈になると、気持ちがよいのです。それで満足してしまうのです。この満足感が障碍になります。Upekkhā という大事な能力を独り歩きさせてはいけません。他の能力と一緒でなければ良くないのです。さらに、upekkhā 漬けは解脱ではありません。無常なる心所の一つです。心所は無常です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p131】
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4月3日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑨ 捨upekkhā
観察の汚れ:⑨ 捨upekkhā 捨と書きますが、upekkhā は「捨てる」という意味ではありません。冷静にいる、という意味です。修行の初期段階では、それほど冷静にいることはできません。冷静さがなくなると修行は止まるので、修行者は冷静さを保つために結構苦労します。 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者には、一切の現象が無常・苦・無我に観えています。修行者は仏教徒なので、この三相は真理であると頭で分かっていました。しかし実践の結果、それを発見します。そのときはびっくりします。自分は今まで頭でっかちに無常・苦・無我だと思っていたけれども、内心は(無意識的に)常・楽・我だと思っていたことも発見します。今までの勘違いにびっくりします。しかしさらに観察を続けると、無常・苦・無我とは現象のありのままの状態であると、どんどん心にインプットされていきます。そのときは、何の驚きもありません。冷静にいます。 このupekkhā は必須条件です。しかしついつい、冷静さが優先になってしまう恐れがあります。人が度を越して冷静になると、どうなると思いますか?
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4月2日読了時間: 2分
突然、強烈な気づき能力が現れて正知の力が弱くなる
突然、強烈な気づき能力が現れて正知の力が弱くなる 五番目の道非道智見清浄のステージの修行者に、突然、強烈な気づき能力が現れてきたら、正知の力が弱くなってしまうのです。気づきが勝手に出て仕事をしているので、修行の能力が完成した気分になります。お釈迦様も、「真理に達した人とは常に気づきがある人だ」と説かれています。今、自分は現実的に「常に気づきがある」状態にいます。ということは解脱ではないか、という勘違いも起こり得ます。このような勘違いがないとしても、勝手にスピードを上げている気づきが、修行のバランスを崩すのです。バランスが崩れたら、進めなくなります。 修行する人にsati は必須条件です。決して悪いものではありません。最初から苦労しながらその能力を育てたのです。その能力が勝手にはたらくところまで成長したら、ありがたいことだと思うのは無理もない話です。ですからその能力に執着してしまいます。これが障碍です。この障碍も結構起こり得るので、要注意です。 Sati とsampajāna はペアであること、一つだけ突出してはいけないこと、sati...
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4月1日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑧ 安住upaṭṭhāna
観察の汚れ:⑧ 安住upaṭṭhāna Upaṭṭhāna とはsati 気づきのことです。長いあいだ気づきの実践をしたので、修行者はそれに慣れています。気づきのプロです。その人に、sati がsamādhi と同じようなはたらきをし始めます。どんな現象が起きても、いとも簡単に気づいて確認するのです。 山の頂上に立った人には、いとも簡単に、麓にある村や川や田畑、往来の人々などがいっぺんに見えてしまいます。麓にいたときとはわけが違います。修行者には何ごとについても強烈にsati が起こります。自分が意図的に気づきを実践する必要はなくなったのです。Sati なしには自分の心の中で何も起こらない状態になっているのです。 それがなぜ障碍になるのか、理解しがたいと思います。しかし、気づいただけでは智慧が現れません。ものごとを観察しただけで、科学者にはなりません。仏教用語ではsati と一緒にsampajāna 正知という言葉をペアにしています。正知は定義が難しい単語です。ヴィパッサナー実践を始める人は、気づきの実践として「膨らみ、縮み」等々、言葉で確
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3月31日読了時間: 2分
目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解する
目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解する 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者は、nāma-rūpa をさまざまな角度で観察しなくてはいけません。高いレベルの精進が欠かせないのです。少々でも心が乱れないようにしなくてはいけません。そこでどんどんやる気ばかり現れてくると、周りが見えなくなります。観察は正しく進まなくなります。悟りに達したという勘違いは起こらないかもしれませんが、「とにかくやればいい」というわけでもないのです。 もちろん、解脱に達したという勘違いも起こり得ます。解脱者には怠けがありません。怠けを根絶しています。今、自分にも怠けがまったくありません。現れる気配さえもないのです。そこで勘違いしてしまう可能性もないとは言えません。修行者は自分の心に起きているけた違いの精進の力をそのまま確認します。それから、精進は目的ではないと、目的に向けてこそ精進が起こるべきものであると理解すれば、この障碍も解決です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p129】
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3月30日読了時間: 1分
観察の汚れ:⑦ 策励paggaha
観察の汚れ:⑦ 策励paggaha この説明は簡単です。Paggaha の本当の姿は精進です。何があっても何が起きても絶対やるぞと決めて、そのとおりにやることです。修行を始めるときは、これぐらいの意欲がなければ修行は進みません。どんどん智慧が現れてくると、成果が見えてくると、やる気も強くなってしまうものです。そこでバランスが崩れます。 分かりやすい例を出しましょう。車を運転する人が、アクセルを踏むと前に進むことを発見します。スピードが出ると気持ちがいいものです。それでその人はアクセルばかり集中して踏んでしまうようになる……。そうなると前進して目的地に達するどころか、事故を起こして終わりです。精進は欠かせない心所ですが、「精進主義」はくせものです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p128】
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3月29日読了時間: 1分
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