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札幌仏教塾
原始脳の力を抑えて大脳の力で生きてみる
原始脳の力を抑えて大脳の力で生きてみる 七つの清浄の一と二以外は、一般的な常識で理解するのは難しいと思います。脳の開発という現代的な言葉を使って説明するなら、もしかすると次のような解説になるだろうと思います。普通の人間の大脳は原始脳の指令によって活動します。原始脳とは理解能力がない臓器です。存在欲、怯え・恐怖、怒りなどの感情が現れる場所です。仏教的に言えば、貪瞋痴が活動する場所です。 戒清浄に挑戦するとは、原始脳の力を抑えて大脳の力で生きてみることです。戒律を守ることが正しいと自分で判断して、意図的に戒律を守らなければいけません。これは大脳の仕事です。戒律を完全に守ることに成功したということは、貪瞋痴の衝動を抑えたという意味です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
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6月3日読了時間: 1分
七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ乗り物(智慧)
七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ乗り物(智慧) 次の対話は、このようになります。サーリプッタ尊者「戒清浄は無執着の完全な涅槃でしょうか?」、プンナ尊者「いいえ、違います」という流れで、プンナ尊者は「七番目の智見清浄も無執着の完全な涅槃ではありません」と答えています。これ以上、清浄の位はないので、サーリプッタ尊者は説明するようにと促します。 プンナ尊者が、ここで七つの車の喩えを出します。ある目的地にたどり着きたいと思った王様が、七台の車を用意してもらいます。一番目の車に乗って行けるところまで進んだら、そちらに二番目の車が用意されています。それに乗って、また行けるところまで進んで、三番目の車に乗り換えます。それを繰り返し、七番目の車に乗り換えて、目的地に達するのです。これは見事な喩えです。智慧は解脱ではないのです。七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ(成長させる)乗り物です。ここで乗り物というのは、智慧のことです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】
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6月2日読了時間: 1分
清浄を目指して修行しているのではない
清浄を目指して修行しているのではない 七つの清浄について、智慧の第一人者であるサーリプッタ尊者とプンナ・マンターニプッタ尊者の対話が中部経典二四『Rathavinīta-sutta 伝車経』に記録されています。サーリプッタ尊者はこのように質問します。「友よ、あなたは戒清浄を目指して如来のもとで修行しているのですか?」プンナ尊者は答えます。「いいえ、違います」。それからサーリプッタ尊者は、心清浄、見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄、智見清浄についても同じ質問をします。プンナ尊者は、「いいえ、違います」と答えます。「ではあなたは、何を目指して修行するのでしょうか?」と聞かれ、「anupādāparinibbānatthaṃ 無執着の完全な涅槃を目指して修行するのです」と、答えるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】
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6月1日読了時間: 1分
智慧と悟りに違いがありますか?
智慧と悟りに違いがありますか? 一般論的にいえば違います。智慧は解脱ではありません。智慧が現れた人は、その結果として解脱に達するのです。今までの説明で、智慧は段階的に現れてくるものだと理解できたと思います。しかし「七つの清浄」と名付けられていて、七つの智慧の段階だとは書かれていません。智慧が現れるぶん、心が浄化されます。必要なのはこの浄化なのです。最終的に七番目のñāṇadassana-visuddhi 智見清浄という地位に達して解脱を経験します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】
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5月31日読了時間: 1分
Paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智
Paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智 ヴィパッサナーの修行者は、悟りに達した瞬間が終わって普通の認識の心路が起きると、そのほんの瞬間あとに、心が何を経験したのか、観察してみます。Paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智と言います。それで煩悩が根絶されたことを発見します。解脱を経験したことも発見します。修行者の個性によって変わると思いますが、基本的にはなくなった煩悩が何なのか、と観察します。それから、まだ残っている煩悩は何なのかと観察をするのです。サマーディ瞑想のセクションでは、サマーディに達してからそのサマーディを復習するべきであるというセクションがありました。五自在という、五種類の復習をするのです。ヴィパッサナーの実践者も、五自在の復習をした方が次のステージの解脱に挑戦しやすくなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p155】
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5月30日読了時間: 1分
初心者の場合は、有身見、疑、戒禁取が根絶され預流果に達する
初心者の場合は、有身見、疑、戒禁取が根絶され預流果に達する 聖者として産声を上げて生まれる瞬間は、magga-citta 道心と言います。その瞬間で、煩悩が消えます。初心者の場合は、有身見、疑、戒禁取が根絶されるのです。次の瞬間の心は、初めて涅槃を対象にします。初心者の場合は、預流果に達したことになります。その心はphala-citta 果心と言います。果心はいくつか繋がって起きます。それから有分心に入って、心路は終了します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p155】
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5月29日読了時間: 1分
解脱に達してしまう時間的な隙間はない
解脱に達してしまう時間的な隙間はない 一般的に言えば、六番目の行道智見清浄に達した修行者は、たちまち解脱に達してしまうのです。時間的な隙間はありません。実践に即して説明するならば、修行者の心は何かの現象の無常・苦・無我という三相の一つに引っかかります。引っかかるとは、三相の一つを対象にして心が生まれた、ということです。(次にanuloma ñāṇa が生まれます。次にgotrabhū ñāṇaが生まれます。) 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p155】
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5月28日読了時間: 1分
parikamma 遍作、upacāra 近行、anuloma 随順、gotrabhū 種姓という順番
parikamma 遍作、upacāra 近行、anuloma 随順、gotrabhū 種姓という順番 禅定の場合はparikamma 遍作、upacāra 近行、appanā 安止、という順番になります。安止とはサマーディのことです。ヴィパッサナーの場合は、parikamma 遍作、upacāra 近行、anuloma 随順、gotrabhū 種姓、という順番を経て、解脱に達します。 Parikamma遍作とは修行することです。しかしアビダンマ心理学では、サマーディか解脱に達するほんの僅かな瞬間の前のところまで、修行の範疇に入れます。次の心はサマーディか解脱に近寄った状態なので、upacāra 近行と言います。 サマーディ瞑想では、次の瞬間でサマーディに達します。ヴィパッサナー瞑想の場合は、十種類の智慧の九番目・⑨ anuloma ñāṇa 随順智という心が生まれます。解脱の玄関にたどり着いた、という意味でしょう。次の瞬間に生まれる心は、解脱に達する修行者にのみ起こる、瞬間の心です。サマーディ瞑想では生まれません。その心に ⑩gotrab
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5月27日読了時間: 1分
解脱に達するとき、心の流れ
解脱に達するとき、心の流れ 解脱に達するとき、心の流れがどのように起こるのか、という説明はmagga vīthi 道路と名付けています。道路の道は仏道のことです。路は心の流れです。ヴィパッサナー実践もここで一つの瞑想として扱います。サマーディ瞑想では結果として禅定に達します。ヴィパッサナー瞑想の結果として、解脱に達します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p154】
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5月26日読了時間: 1分
バーヒヤBāhiya 尊者
バーヒヤBāhiya 尊者 仏教史上、一番短い時間で最終解脱に達した聖者はバーヒヤBāhiya 尊者でした。智慧第一のサーリプッタ尊者も、最終解脱に達するまでには時間がかかりました。仏伝によると、お釈迦様も一晩かかりました。 七番目の智見清浄というのは、悟り・解脱に達する瞬間のことです。ハシゴの最後の横木を踏んで、安全な境地に入るのです。これも言葉で説明することは不可能です。ただアビダンマ的には、心路の説明で終了するより他の方法はありません。心路とは、何かを認識するとき、心の流れがどのように起こるのか、という説明です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p154】
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5月25日読了時間: 1分
成長の過程は誰にでも同じ順番で現れる
成長の過程は誰にでも同じ順番で現れる 修行者は修行を戒清浄から始めます。そのときから、心に成長の変化が確実に起こるのです。お釈迦様の教えでは、あっという間に、突然に、解脱に達するということはありません。それは因果法則に反します。種を植えたらあっという間に実った、ということはありません。種から実になるまでのプロセスがあります。種の種類によって、実るまでかかる時間にはバラつきがあることでしょう。桃栗三年柿八年というフレーズに、実るまでのバラつきが現れています。人間の能力にも、バラつきがあります。精進する度合いにもバラつきが出てきます。それによって、修行を始めて悟りに達するまでかかる時間が変わります。実るまでの時間が長かろうが短かろうが、成長の過程は同じです。誰にでも同じ順番で、ヴィパッサナーの智慧が現れるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月24日読了時間: 1分
ハシゴの喩えはいろいろ変えることができる
ハシゴの喩えはいろいろ変えることができる 七番目の横木と安全な境地は平行のレベルにあります(俗世間のレベルに属する苦聖諦と集聖諦、出世間のレベルに属する滅聖諦と道聖諦、という二種類が一つの智慧で理解できます)。七番目の横木に昇ったら、解脱という安全な境地です。 ハシゴの喩えをいろいろ変えることもできます。六番目の行道智見清浄の中身は九種類のヴィパッサナーの智慧でした。それも九つの横木でできているハシゴに喩えてみても構いません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月23日読了時間: 1分
六番目の横木は行道智見清浄
六番目の横木は行道智見清浄 この例で言う溶岩に呑まれかけて苦しんでいる状態は、生命が輪廻転生している状態です。ブッダの教えを聴いて、それは苦であると理解して、上に安全な境地があると分かる。それに達したいという意欲も抱く。 安全な境地に達したいという意欲を抱いたところで、智慧のハシゴが見えてくる。最初からすべて見えるというより、まず横木一つが見えてくる。それを昇ったら、次の智慧の横木が現れてくる……こんな調子で、六番目の横木も昇ってみる。それは六番目の行道智見清浄と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月22日読了時間: 1分
悟りに達する瞬間(七清浄の七番目:智見清浄)
悟りに達する瞬間(七清浄の七番目:智見清浄) やっと七清浄の七番目の智見清浄の説明になります。七つの清浄は、智慧は七つの段階で構成されているという理解で学んだ方が分かりやすいでしょう。輪廻の世界から涅槃の境地に達するときの段階です。喩えを作ります。 自分が溶岩に呑まれかけているとしましょう。それは決して面白くないと発見する。溶岩から這い上がろうとする。しかし溶岩の危険性のまったくない安全な境地には、高い壁がそびえています。そして、そこにハシゴがあります。このハシゴを昇れば、安全な境地に達します。このハシゴに七つの横木があります。その七番目に昇ったら、次は溶岩とまったく関係のない安全な境地です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】
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5月21日読了時間: 1分
諦めた瞬間の次に逃げる方向に心が行く
諦めた瞬間の次に逃げる方向に心が行く それでも、喩えを出します。前に火事になった寝室の話をしました。部屋が延焼しているので、怖くなったりして、それから部屋の状況はどうなのかと見て、部屋のことを完全に諦めることにする。それがupekkhā(行捨智)のステージです。 諦めるだけでは答えになりません。部屋から逃げ出さなくてはいけないのです。自分を救済しなくてはいけません。諦めた瞬間の次に、部屋から安全なところに逃げる方向に心が行くのです。窓の外を見たら、消防隊が空気マットを張っているとしましょう。そこで部屋の中にいる人には、ごうごうと燃えている自分の部屋も見えるし、その暑さも危険性も感じるし、外に張ってある安全な境地である空気マットも見えるのです。危険と同時に安全をいっぺんに見るというのは、このようなことです。まだその人に残っているのは、たった一つの仕事です。何の躊躇もなく飛び込むだけのことです。 行捨智という終局のステージに入った修行者にも、残っているのはたった一つの仕事です。解脱に飛び込むことです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践
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5月20日読了時間: 1分
現象の世界も解脱の境地も一つの真理として理解できる智慧
現象の世界も解脱の境地も一つの真理として理解できる智慧 空などを観察してみると、upekkhā の力がさらに強くなります。その力が頂点に達したら、空なる現象の世界も、空を乗り越えて達する解脱の境地も、一つの真理として理解できる智慧が現れます。 決して知識的な言葉では説明不可能なことを、今、無理をして説明しているので、読んでいるみなさんが理解できなくても心配する必要はありません。終局のステージに達した修行者の心の中身を言っているので、実践する人には問題なく経験できることです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月19日読了時間: 1分
空とは、行捨智で観察してみる一つの観察の仕方
空とは、行捨智で観察してみる一つの観察の仕方 空とは、ヴィパッサナー修行者が智慧の終局のステージの一つ前のステージ(行捨智)で観察してみる、一つの観察の仕方なのです。現象を無常・苦・無我という三つに分けてみる代わりに、一つにするのです。そのとき使う単語は、空です。しかし言葉遊びをしてはいけませんので、さまざまな角度で空を経験的に観察します。まず一つの側面として空を見る。それから、二つの立場で空を観察する。四つ、六つ、八つという立場も説かれていて、最終的に四十二の角度で空を観察するのです。Suñña という言葉は、異様な二重性を持っています。現象の世界の本当の姿に対して空と言えるし、真理に対しても空と言えるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p151】
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5月18日読了時間: 1分
Upekkhā の力が頂上のレベルに上がるまで育てる
Upekkhā の力が頂上のレベルに上がるまで育てる 最後の智慧を発見するために、一つ前の智慧である行捨智が唯一の手段になります。もしも修行者に諦随順智が現れないならば、繰り返し繰り返し、行捨智ステージの修行をします。徹底的にupekkhā の力を育てるのです。Upekkhā の力が頂上のレベルに上がるまで育てます。『清浄道論』では、そのための工夫がいろいろ説かれています。一つはsuñña 空の観察です。 空という単語は、日本の仏教界では日常的に使われているようです。これは宝石を石ころ扱いするようなことです。空を唱えたからといって、智慧は開発されませんし、なんにもなりません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p151】
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5月17日読了時間: 1分
四聖諦の四が消え、八正道の八が消える
四聖諦の四が消え、八正道の八が消える すべての現象は無常・苦・無我であると発見するとき、現れる智慧の中に入っているのは、苦聖諦と集聖諦です。滅聖諦と道聖諦は入らないと理解した方がよいと思います。道聖諦を実践しているのですから、それをカットしても構わないのですが、智慧に滅聖諦という真理は入っていません。ですが、この終局のステージでは、それも入ります。唯一の真理として、四聖諦を発見します。 次に疑問になるのは道聖諦である八正道だと思います。項目は八つですから、俗世間のレベルで実践するときは、八種類の実践になります。終局のステージに達すると、八種類の実践を完成しているのです。修行者が終局的なステージに入ったときの心に、その経験も入っています。要するにそれまでの修行(八正道)の結果として、諦随順智が現れたのです(四聖諦の四が消え、八正道の八が消える、とでも言っておきましょう)。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月16日読了時間: 1分
終局のステージの智慧も俗世間の法
終局のステージの智慧も俗世間の法 言葉で書くと、ここまでの説明のようになりますが、修行者の心の中に起こる出来事は言葉にすることはできません。修行者の心の中には四聖諦の四という単語さえも起きません。ただ、一切の現象のありのままの姿を発見するのです。現象は無常・苦・無我であるという立場で、時間をかけて観察して智慧を開発してきたのです。 終局のステージでも同じことかと、思われるでしょう。同じではありません。聖者にしか現れない智慧が、修行者に俗世間のレベルで現れたのです。修行者は俗世間の認識レベルをはるかに破って超えていますが、まだ悟りに達してないので、アビダンマでは厳しく、終局のステージの智慧も俗世間の法に入れます。これはただの学術的な問題なので、気にする必要はありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月15日読了時間: 1分
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