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札幌仏教塾
出家戒律② indriya-saṃvara-sīla「六根の制御」
出家戒律② indriya-saṃvara-sīla「六根の制御」 二番目はindriya-saṃvara-sīla といいます。眼耳鼻舌身意という六根を制御するのです。見たい放題見たり、聞きたい放題聞くのではなくて、見ても、心の中で欲と怒りが生まれないように気をつける。音を聞いても、心の中で欲と怒りが生まれないように、混乱しないようにガードする。ご飯を食べても、そのおいしさで欲か怒りが生まれないようにガードする。心の安定を守る。そういう戒律です。 このセクションは、瞑想実践に励む在家の方々もいくらか注意した方がよいところです。修行中、眼から、耳から、鼻から、口から入る情報に心が揺らいでしまったら、誘惑されてしまったら、修行を中断するはめになります。眼耳鼻舌身に入る色声香味触という情報によって、心にいとも簡単に欲か怒りが現れてしまうのです。感情が牙を剥いたことになります。在家の方々も解脱を目指して修行する場合は、修行中、この戒律を守るように精進した方がよいです。気づきの実践をしているならば、自然にこの戒律を守っていることになります。【アルボムッレ
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11月19日読了時間: 1分
出家戒律は四種類
出家戒律は四種類 出家の場合、戒律は五戒・八戒などではありません。全面的に心の感情を攻撃しなくてはいけませんから、戒律項目は膨大です。しかし、その膨大な項目は四種類に分けられていますので、守ることはそれほど厳しくありません。 出家戒律① pātimokkha-saṃvara-sīla「完全に防護する」 一番目はpātimokkha-saṃvara-sīla です。Pātimokkha は、「完全に防護する」という意味です。この戒律項目を守れば、修行者は解脱に達するまで完全に防護されるのです。煩悩が牙を剥いて心を汚し、修行を中断に追い込むようなことはさせません。パーリ律蔵の比丘戒では、二百二十七項目の戒律がpātimokkha-saṃvara-sīla になります。出家する方々には、最初にpātimokkha-saṃvara-sīla を守る方法を教えます。在家の方々がそれを学んでも知識が増えるだけで実践はできませんから、ここで説明する必要はないと思います。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p67】
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11月18日読了時間: 1分
人格者に戒律の必要なし
人格者に戒律の必要なし お釈迦様が項目戒律を定めたのは、悟りを開いて二十年経ってからです。そのとき、お釈迦様は五十五歳でした。そこまでは戒律項目が一つもないまま、仏教が世に広まっていきました。それでもたくさんの人々が、解脱に達しました。出家解脱者も、悟りに達した在家の方々もたくさんいました。 この現象も理解しておいた方がよいです。最初にお釈迦様に出会ったのは、皆、人格的に立派な方々でした。ブッダの教えはそれほど知られていませんでしたし、その内容も一般常識を超えたものでした。ですから、興味のある人々が、わざわざお釈迦様を訪ねて教えてもらったのです。最初の弟子たちは、仏弟子になる前から出家者でした。その方々が入っていた宗教組織の行儀作法なども、すでに身についていました。ですから、「行儀よくしなさい。殺生したり嘘をついたりしてはいけない。邪な行為をやめなさい」などと言う必要はありませんでした。また、当時も生活目当てに出家生活を始めた人々は当然いましたが、そういう人々は精神を清らかにすることに興味がなかったので、釈尊を訪ねることはありませんでした。 この
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11月17日読了時間: 2分
在家戒律
在家戒律 在家にとっての戒律はどうでしょう。在家の仏教徒も解脱を目指します。仏教を実践しなくてはいけないのです。しかも同時に、在家生活も営まなくてはなりません。というわけで、戒律は五項目に集約されています。それはみなさんが知っている五戒です。瞑想実践に入る場合は、修行中なのでいったん在家生活を中止しています。その場合は、八戒か十戒を守ります。 戒律を守ることで、品格のある人間として生きられます。感情を制御しているので、優れた善行為をしていることにもなります。罪を犯さないで生活することができます。社会の中で問題を起こさないので、安心して生きられます。そのような理由から、瞑想実践しない仏教徒も在家戒律を守る努力をするのです。 戒律とはまともな社会人として生きることであると理解するならば、それは宗教的な特別な行ではないことが分かります。しかし一般的には、「戒律」という言葉を聞いただけで敬遠する気持ちになります。要するに、守りたくないのです。これは根本的な煩悩の症状です。生命は自分の感情のままに生きていきたいのです。感情のままに生きることが反社会的な行動
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11月16日読了時間: 2分
戒律はお釈迦様の解決策
戒律はお釈迦様の解決策 仏典を読むと、お釈迦様がしぶしぶ戒律項目を定めていったことがよく分かります。「戒律項目がなかったときは、たくさんの弟子たちが解脱に達しました。今、たくさん戒律項目があるが、解脱に達する弟子たちの数はずいぶん減りました」とこぼしたこともありました。お釈迦様は戒律項目を定めるたびに、戒律の目的を明確にしていました。繰り返し繰り返し、それを述べるのです。しかし、目的は一項目です。弟子たちが、戒律の目的は煩悩に牙を剥くチャンスを与えないことであると理解しておけば、一億に近い戒律項目も負担にならずに済みます。 ブッダは涅槃に入られる前、「如来が涅槃に入ってから、些細な戒律を適宜に無視してもよい」と説かれました。しかし仏弟子たちには、些細な戒律とは何かと決めることはできません。その基準はないのです。仏弟子たちはこのように決めました。「釈尊の説かれた戒律を犯すことも、説かれていない戒律を設定することも、ブッダの教えの衰退の原因になると、釈尊が忠告なさったのです。ですから、些細な戒律の改良もやめて、釈尊の定められた戒律項目をすべて、これか
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11月15日読了時間: 1分
「心を汚してはならない」という一項目
「心を汚してはならない」という一項目 他宗教でも項目戒律があります。厳密に戒律項目の数を決めることは不可能であるにもかかわらず、十戒などの戒律を断言するのは問題です。しかし、宗教家たちは自分勝手に、時代の要求に応じて規則を作ります。それに反対する人々も現れます。そして宗教組織としての調和が乱れて、分派してしまいます。 社会も戒律項目を決めています。どんな社会であっても、その社会において「あってはいけないこと」があります。政府も法律という戒律項目を決めます。また、各家族にも、家族の決まりというものがあるようです。学校には校則があり、会社には社則があります。守らなければ、社会の一員としての自分の地位が危ういものになります。このような規則は、社会の秩序と繁栄を目指して定められるものです。これらの規則の数も、無数です。憶えるのは大変です。実際には誰も憶えていません。しかし皆、法律と規則を守って、なんとか無事に生きています。 日本の社会では、無数にある規則を「他人に迷惑をかけてはならない」という一項目に見事にまとめています。同様に、仏教の場合は、「心を汚し
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11月14日読了時間: 2分
仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない
仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない 次の問題は、戒律項目は誰が設定するのか、ということです。誰にその権利があるのでしょうか。解脱を目指す仏教の場合は、これは問題になりません。感情を砕くために戒律項目を設定するので、感情を砕き終わった人には、同じ目的を目指す人々に戒律項目を定める権利があります。仏教の場合は、お釈迦様の独占権になります。たとえ阿羅漢になった聖者であろうとも、初めはお釈迦様の弟子なのです。智慧を完成し、煩悩を根絶したお釈迦様が定めた戒律項目は、文句を言わず守らなくてはいけません。 大きな戒律項目ではなく細かい戒律項目の場合、例えば「走ってはならない」などは、心に影響を与えない可能性があります。それで調子に乗って細かい戒律を無視すると、師匠である釈尊を無視した、冒瀆したことになるのです。これが解脱の大きな障害になります。というわけで仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない、ということになっています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p63】
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11月13日読了時間: 1分
項目戒律の存在意義
項目戒律の存在意義 戒律が必要とされる理由は、自分の精神状態をチェックする能力が皆にあるとは言えないからです。ですから、戒律・規則をいちいち項目として設定して教えてあげなくてはいけなくなったのです。 例えば、「殺してはならない」という項目が設定されています。ある人に怒りが湧き上がったとしましょう。自分の怒りの感情に気づかず、相手が悪いと思うばかりです。殺意も起きます。しかし、規則を守らなくてはいけないので、相手を殺すことをやめます。それで湧き上がった怒りは目的に達することができなくなります。またその人に、怒りによる殺意ではなく、相手を侮辱したいという意志が生まれたとします。この場合は「他を侮辱してはならない」という規則が対応します。その人がその規則を守る気になっているならば、罪を犯さずに済むのです。品格は守られます。 この段取りを考えると、項目戒律はかなり厄介なものであると理解できます。貪瞋痴の感情が湧き上がったら、人は何をするか分かったものではありません。人が罪を犯すたびに、戒律項目を設定しなくてはいけないのです。これは終わりのない作業になりま
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11月12日読了時間: 2分
制御された生き方が感情の邪魔をする
制御された生き方が感情の邪魔をする 問題は、無知の感情が湧き上がったらどうするのか、ということです。感情は無知なので、当然、それに気づくことはできません。そこでまず、欲と怒りの感情に従わないように生きてみます。すると、無知にも気づけるようになります。頭が混乱した状態に陥ったとき、判断能力を失ったとき、なんにも集中できないとき、私たちは無知に支配されています。そのときは、何もしゃべらず、何もおこなわず、冷静な気持ちに戻るまで黙っていればよいのです。品格を問われる過ちは犯さずに済みます。 このように自分の心の状態(精神状態)をチェックしながら生き方を制御するのが、戒律を守って生きることなのです。戒律は、貪瞋痴がはたらかないように邪魔する生き方です。これで解脱に達する道がスタートします。自分の制御された生き方が感情の邪魔をすると、感情が弱くなっていきます。これが仏教心理学的な戒律の説明であり、実践方法です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p62】
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11月11日読了時間: 1分
品格のある人間として、生きてみる
品格のある人間として、生きてみる 解脱に達する人々は、感情(千五百煩悩)を根絶するのです。仏教の戒律とは、煩悩を砕く過程の第一歩です。 仏教の戒律は心理学的な実践方法であり、決して宗教的なしきたり・儀式ではありません。このことを理解するのはいたって簡単です。怒りが湧き上がったとしましょう。その感情が心と身体を支配するのです。怒りが人にしゃべらせる。そのとき、まともな社会人として発してはいけない言葉を発してしまいます。怒りが行為をさせる。そのとき、まともな社会人としておこなってはいけない悪行為をしてしまいます。ここで戒律を守るのです。戒律を実践したいと精進する人は、悪語を話したいが話さないことにする。自己を制御する。悪語といえば、妄語(嘘)・粗悪語(乱暴語)・離間語(噂)・綺語(無駄話)という四種類です。 欲の感情が湧き上がったときも、怒りのときと同様に自己制御します。これが戒律を守るということです。要するに、まともな社会人として、品格のある人間として、生きてみることです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ201
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11月10日読了時間: 1分
解脱に不可欠な戒律
解脱に不可欠な戒律 戒律とは、何かの宗教を信仰する場合に守らなくてはいけない規則であると一般的に知られています。仏教は解脱を目指す教えです。その目的に達するために欠かせない基本的な規則が、仏教の戒律なのです。解脱は、心の成長と智慧の開発によって現れるものです。ですから、仏教の戒律は心理学的な規則であると言っても過言ではありません。戒律を守ることによって、人格向上を目指すのです。 普通の生命は誰でも、感情の衝動で生きています。感情の大本は、無知と渇愛です。貪瞋痴という三つに分けることもありますし、千五百の煩悩だと言うときもあります。この煩悩が、我々を支配し管理しています。煩悩の種類によって、考えたり話したり行為をしたりするのです。ですから、気分次第で生きるのは危険です。何の成長も見込めません。感情に支配されると、理性がはたらかないのです。欲・怒り・嫉妬などの感情が湧いてきたら、人は何の躊躇もなく悪行為をします。悪を犯している人々も、ある程度、知識人です。世間の常識を知っています。しかし、感情に負けるのです。優れた知識人であっても、感情には勝てません
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11月9日読了時間: 2分
七つの清浄
七つの清浄 ヴィパッサナー実践と解脱に関して、理解するべきポイントを項目だけ追ってきました。再び、最初の項目に戻る必要があります。それは七つの清浄です。 修行によって人は、人格的に向上します。心の汚れがなくなっていきます。智慧も徐々に現れてきます。このプロセスが、「七つの清浄」という項目で説かれています。これから詳しく、七つの清浄を解説します。同じ内容を繰り返しているわけではありません。これから本格的に、解脱を目指して修行する意欲を持っている行者がいるとしましょう。その方が解脱というゴールに達するためにどのように努力すればよいのか、という説明です。ですから、具体的に七つの清浄に達する方法を、これから説明することになります。七つの清浄の説明が終わってから、解脱に達するまでの智慧の順番の具体的な説明になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p61】
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11月8日読了時間: 1分
解脱を三種類にしている
解脱を三種類にしている 修行者は実践している過程で、苦に気づいたり、無常に気づいたり、まれに無我に気づいたりもします。しかし修行が最終段階に入ると、無常・苦・無我の一つに集中するのです。いずれに集中するのか、ということは、その個人次第です。無理に、意図的に、一つを選ぶことはできません。ですから修行者は、無常を発見して解脱に達するか、苦を発見して解脱に達するか、無我を発見して解脱に達するか、いずれか一つになります。この差を説明するために、解脱を三種類にしているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p57】
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11月7日読了時間: 1分
無常・苦・無我と無相・無願・空
無常・苦・無我と無相・無願・空 一切の現象の本来の姿は、無常・苦・無我です。真理とは、無常・苦・無我なのです。観察実践しない人々の認識は、合成された現象のみです。しかし、観察実践に成功すると、ありのままに観ることができるようになります。それで初めて、「一切の現象は無常・苦・無我だ」と発見するのです。お釈迦様は、無常・苦・無我を互いに異なった別々の概念としては説かれていません。 お釈迦様の説明の仕方は、次のようなものになります。「ものごとは、決して変わらないものだとするべきでしょうか、常に変わるものだとするべきでしょうか?」と問うと、問われた相手は「変わるものである」と答えます。そこで「変わるもの、一定しないものは、楽だとするべきでしょうか、苦だとするべきでしょうか?」と問えば、相手は「苦」だと答えます。「無常であり苦であるものは、私のアートマンである、私の真我である、これこそが自我であると、認めるべきでしょうか? 無我だとするべきでしょうか?」と問えば、相手は「無我」と答えます。このような対話では、無常・苦・無我とは現象の本来の姿であるということ
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11月6日読了時間: 2分
観察の仕方により三種類
観察の仕方により三種類 解脱はゴールなので、当然一つです。種類の違う複数の解脱がある、という考えは論理的に成り立ちません。 では、それなのになぜここで、空解脱、無相解脱、無願解脱という三種類になっているのか、それを理解する必要があります。これは決して、三種類の解脱がある、という意味ではないのです。実践する修行者の観察の仕方によって、また、「どのように真理を発見するのか?」ということによって、三種類に分けているだけです。喩えで言えば、東京にいる人が大阪へ行く場合に、交通手段として飛行機を使うか、新幹線を使うか、夜行バスに乗るか、という差のようなものです。旅の経験はそれぞれ違いますが、着くところは皆、同じです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p56】
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11月5日読了時間: 1分
涅槃という境地があります
涅槃という境地があります それでも最終解脱について「言葉で語れない」ということは、知識でものごとを理解しようとする人々にとっては曖昧な表現に映るのです。ブッダは曖昧な表現を徹底的に避けます。次のように、弟子たちに「比丘たちよ、涅槃という境地がある」と明確に説かれるところもあります。 比丘たちよ、生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地] がある。比丘たちよ、もしも、その生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地]がなければ、生まれるもの、存るもの、造られたもの、作為されたものにnissaraṇaṃ paññāyatī(出離の智慧)救済はなくなるのです。しかし比丘たちよ、生まれることがない(不生)、……という[境地]があるゆえに、生まれるもの、……に救済があるのです。(ウダーナ八章三経) 大変難しいフレーズですが、意訳してみれば簡単に理解できます。「涅槃という境地があります。涅槃という境地がなかったならば、輪
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11月4日読了時間: 2分
炎の喩え
炎の喩え 解脱を説明した具体的な例を挙げると、「涅槃に入られた聖者はどうなるのか?」という質問に、炎の喩えでお答えになっています。「油と芯があって、炎が燃え続けます。もし油か芯がなくなったら、炎は消えます」と。そのとき、「その炎はどこへ行ったのでしょうか?」と質問されても、それは答えられません。言えるのは、「原因がなくなったから結果もなくなった」ということです。 煩悩があるから、五蘊で生命が構成されて変化し続けるのです。煩悩を完全に断ったところで、五蘊の構成が終了します。生命体として輪廻転生することが終了するのです。 このような説明を聞くと、涅槃とは虚無の境地ではないかと勘違いします。かつて仏教を研究した西洋の学者たちから、「ブッダは生きる苦しみに対して虚無の境地を推薦しているのだ」と言われたこともありました。これはそれほど突飛な意見というわけではありません。お釈迦様の時代にも、「ブッダは虚無を説く人である」との批判を受けたことがありました。お釈迦様はその批判に、「私は一切の煩悩の断滅を推薦するから、虚無主義者だと言われても構わない」とユーモア的
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11月3日読了時間: 1分
解脱の説明は、間接的
解脱の説明は、間接的 お釈迦様が説かれた解脱の説明は、間接的です。例えば、“一切の苦しみを乗り越えた境地”、“生死を乗り越えた境地”、“超越した境地”、“不死なる境地”などと説明されています。また、否定形の形容詞で語られた言葉もたくさんあります。“不貪不瞋不痴の境地”、“輪廻転生しない境地”、“再び生まれない境地”、“不生不死の境地”などです。否定形の形容詞は、解脱について、分かったような分からないような気にさせます。なぜならば、そこで否定されている無常・苦・生・死・貪瞋痴・煩悩などは一般常識で理解できるからです。それらの否定なので、分かったような分からないような気がするのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p55】
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11月2日読了時間: 1分
三つの解脱
三つの解脱 仏教とは、解脱という最終目的を目指して実践する教えです。お釈迦様は「解脱(涅槃)という境地について、概念を用いて語ることはできません」と、おっしゃっています。何でも論理的かつ明確に説かれるお釈迦様が、解脱とはどういうものかについて説明しなかったのは、解脱という境地は神秘的なものであると言うためではありません。解脱という境地は生命の理解能力範囲を超えています。概念の範囲を超えています。ですから、解脱の状況を説明する言語は存在しないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p54】
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11月1日読了時間: 1分
観智:⑩ 随順する智
観智:⑩ 随順する智 次に、anuloma-ñāṇa 随順智が生まれるのです。何に随順しているのでしょうか。解脱に随順するのです。 ヘリの喩えで理解できると思います。山火事に囲まれていたときは、恐怖のどん底でした。ヘリが見えたところで、期待が生まれてきました。落ち着きました。ヘリはよいところで静止して、縄ばしごも下りてきます。山火事に囲まれていた人の気持ちは、もう山火事のことに向いていないのです。ヘリに乗ること、安全な場所に行くことに向いています。興味は救出後の場所にあり、すでに山火事は全然怖くありません。実際は今も山火事に囲まれた状態です。しかし、完全に安心した気持ちでいますし、助かるという自信もあります。恐怖感はすべて消えているのです。 ヴィパッサナー実践をする修行者も、⑨行捨智で落ち着きを得て、⑩随順智で解脱に随順した安心感に達するのです。これも智慧と言います。なぜならば、心のレベルが変わったからです。そして次の瞬間に、解脱に達するのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p53】
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10月31日読了時間: 1分
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