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札幌仏教塾
さらに三つの見方:①長所assāda ②短所ādīnava
さらに三つの見方:①長所assāda ②短所ādīnava この四つに、もう二つの見方を付け加える場合もあります。長所assāda と短所ādīnava です。すると、六つの見方になります。例えば怒りなどには長所と短所を考えた方がいいですし、慈悲喜捨の瞑想の場合にも、間違えたらどうなるか、正しくやったらどうなるかと、厳密に長所と短所を考えた方がいいのです。そのように長所と短所も考えなくてはならないときもあり、別に気にしなくてもいい場合もあります。普通は、長所と短所も考えた方が、人間が立派になりますね。 ものごとは善いとか悪いではなく、長所と短所を両方持っているのだと理解した方がいいのです。例えば怒りは、仏教では煩悩だと言って悪いと見ますが、それでもどうして人間が怒ることをやめないのかといえば、何か長所があるからでしょう。そうでなければ、すぐやめます。怒っている人は、怒りの長所だけを見ているのです。だから怒りを収めない、それだけのことです。 どんなものごとにも長所・短所の両方を見た方がいいです。例えば宗教的になるのはありがたいことでも、瞑想だけに徹
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1月4日読了時間: 2分
瞬間前の直接原因も確認
瞬間前の直接原因も確認 修行者はもろもろの現象の因果法則を発見するとき、直接原因に気づきます。一つの現象に関わるすべての原因を発見することはあり得ない話です。修行者の心に欲が起きたとしましょう。その欲の心所を引き起こした直接原因を見つけるのです。それで充分です。簡単に説明しましたが、大事なところです。修行者はどこまでも過去にさかのぼって原因の原因を探したりはしません。現象の直接原因を発見する能力さえあれば、充分です。修行中は、現れる現象をその都度その都度、確認します。そのとき、瞬間前の直接原因も確認します。これはpadaṭṭhāna の発見になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p89】
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1月3日読了時間: 1分
四つの観察④:padaṭṭhāna 直接原因
四つの観察④:padaṭṭhāna 直接原因 Padaṭṭhāna とは、現象の直接原因のことです。現象の因縁関係は複雑です。一個の原因で一個の結果が現れるわけではありません。しかし気になるのは直接原因です。 家が火事になったとしましょう。たくさんの原因がそろって家が燃えてしまったのですが、そのたくさんの原因はどうでもよいことです。例えば直接原因が、子供がライターで火遊びをしたことだったとしたら、子供が直接、家に火をつけたわけではなく、他のたくさんの原因がそろって火事になったのです。しかし、そのたくさんの原因はどうでもよいことです。直接原因を発見した私たちは、二度と同じ事故を起こさないように解決策を練ります。直接原因さえ知っておけば、答えは簡単です。それは、子供に火遊びをさせないということです。子供の力で着火できないライターを開発すればよいのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p89】
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1月2日読了時間: 1分
現象が我々の心に見せる姿
現象が我々の心に見せる姿 話が難しくなるので、例を出します。人が何かを指して「バナナ」と言います。瞬時に分かります。しかし味・香りなどを調べてはいません。熟しているか、青いままかも調べていません。ある品物を見た瞬間に、脳に何かの反応が起こります。その反応で「バナナ」だと結論づけるのです。Paccupaṭṭhāna とは、現象がこのように我々の心に見せる姿のことです。ですから日本語訳は「現状」なのです。一般的な日本語の「現状」という意味ではありません。 修行者はnāma とrūpa を区別して発見しなくてはいけません。各nāma とrūpa が自分を現す姿を持っています。修行者はそれで区別認識します。例えばnāma の一部であるlobha を観察してみましょう。Lobha とはものごとに執着させる欲のことですが、それはなかなか分かりません。しかしヴィパッサナー実践が進んだ修行者は、簡単に「これはlobha です」と確認することができます。「執着を引き起こすはたらきを持っているからlobha です」と思う前に、瞬時にlobha を確認しているのです。
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2026年1月1日読了時間: 2分
四つの観察③:paccupaṭṭhāna 現状
四つの観察③:paccupaṭṭhāna 現状 Paccupaṭṭhāna も喩えで説明すると分かりやすいです。ボールペンとは文字などを書くために使う道具です。ボールペンの形に作ったオモチャは、オモチャであってボールペンではありません。私たちはいとも簡単にボールペンを認識します。しかし一度たりとも、文字などを書ける道具だからこれはボールペンです、と決めたことはありません。ややこしいことを考えなくても、見ればすぐ分かるものです。このように、現象が私たちの認識に反映する姿のことをpaccupaṭṭhāna と言います。普通は誰でも、現象が持っているはたらきに気づかず、paccupaṭṭhāna で判断してしまいます。人を見れば、瞬時に男か女か分かります。実際に男としての、女としてのはたらきをしているか否かは関係ないのです。 言い換えてみると、「世に見せる姿」です。どんな現象も、何かの姿を見せています。Dhamma が心に見せる姿も観察しなくてはいけません。修行者は八十一のdhamma が持っているpaccupaṭṭhāna を発見するのです。各dha
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2025年12月31日読了時間: 1分
dhamma のrasa(はたらき)を発見してみる
dhamma のrasa(はたらき)を発見してみる ヴィパッサナー実践をする修行者は、現象が担うはたらきを観察します。はたらきがあるからこそ、世俗的に現象があると言えるのだと発見します。しかし世の中にあるすべての現象のはたらきを調べることは不可能です。これも科学的におこなわなくてはいけません。アビダンマでは、すべての現象を八十一のdhamma に分類しています。世俗的に見れば、無数の現象と無数のはたらきがあるかもしれませんが、真理の立場から観れば八十一個のdhamma があるのです。要するに八十一種類のはたらきがあるということです。Dhamma にあるはたらきを、rasa と言います。修行者はいずれかのdhamma のrasa(はたらき)を発見してみるのです。 例えば、lobha という心所があります。Nāma の一部です。何のはたらきを指してlobha と言うのでしょうか。怒り・嫉妬などの心所があります。何のはたらきを指して怒りや嫉妬と言うのでしょうか。膨らみ、という現象があります。物質の何のはたらきを指して、膨らみと言うのでしょうか。このよう
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2025年12月30日読了時間: 2分
お粥とおにぎり
お粥とおにぎり 無数のはたらきがあって、世は成り立っています。そして、一つのはたらきが別のはたらきと一緒になって機能する場合が多いです。プラスティックの筒は一つのはたらき。インクが入っている筒は別なはたらき。ペン先のベアリングは別なはたらき。キャップは別なはたらき。それぞれのはたらきを合わせたところで、「ボールペン」という現象が見えてきます。 仏教は「ものは存在する」という実体論は正しくないとします。実体はないのです。はたらきがあるのです。ものごとのはたらきを発見すると、実体論が間違っていると理解できます。ものごとに名前を付ける場合は、はたらきを考慮するのです。お粥とおにぎりと言えば、中身は同じですが、別々な現象です。それぞれのはたらきが違います。お粥だと勘違いしておにぎりを食べたり、おにぎりだと勘違いしてお粥を食べたりはしません。このようにして、違うはたらきをするから違うものが存在するのだ、という認識が生まれます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p87】
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2025年12月29日読了時間: 1分
四つの観察②:rasa 作用
四つの観察②:rasa 作用 ものは「ある」と一般的には思っています。実はものがあるのではなく、さまざまなはたらきがあるのです。このはたらきを認識して、ものだと思っているのです。 何かを指して「ボールペンだ」と言ったとしましょう。しかし何を指してもいいわけではありません。「ボールペン」と言えるためには、そのものが何かの仕事をこなさなくてはいけません。ある品物がおこなうはたらきに対して、「ボールペンだ」と言うのです。プラスティックの筒をボールペンとは言いません。何かの品物に「マイク」と言います。その場合は、その品物がある特定の仕事をしているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p86】
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2025年12月28日読了時間: 1分
八十一個の現象
八十一個の現象 ものごとの自性を見いだすことができれば、それは抜群の能力になります。しかし俗世間的なものごとの自性をすべて見つけることは、あり得ない話です。ここで仏教は、科学者が使う方法論を用います。生物学者は、すべての動植物を一個一個別々に研究することはしません。類似点を見つけて、グループに分けて研究しやすくします。仏教の場合は、存在全体をnāma とrūpa という二つに分けます。それから、nāma はいくつあるのか、rūpa はいくつあるのかと調べるのです。アビダンマではnāma は心一つと心所五十二、合わせて五十三です。Rūpa は二十八です。簡単で分かりやすいです。八十一個の現象になったのは、それぞれの現象(dhamma)に自性があるからです。修行者はnāma のいずれかに集中してみます。Rūpa のいずれかに集中してみます。その場合、集中したdhamma の自性が観えてきます。 修行者はnāma のすべてを観察する必要はありません。同じくrūpa のすべてを観察する必要もありません。修行中、何かに気づくでしょう。それをその都度、観察す
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2025年12月27日読了時間: 1分
紙コップ
紙コップ例えば、紙コップを五つくらい取り出して、机の上に置きます。それからシャッフルします。では最初に置いた紙コップを見つけてください……それは無理です。五つの紙コップとも、まったく同じものに見えます。区別はできなくなります。 宿泊瞑想会では皆、面白いことをします。飲み物のために紙コップを使います。しかし資源の無駄遣いになるので、一杯飲んで使い捨てるのではなく同じ紙コップを一日使い続けます。朝、最初にコップを使ってから、コップに自分の名前を書いておきます。そうすることで、紙コップを一箇所に片づけてあっても、自分専用のコップを見つけることはいとも簡単になります。この場合は紙コップの区別ができないので、あえて特色をつくってあげているのです。 すべての現象は、一回限りの現象だとも言えます。毎年同じ桜の花は咲きません。咲いた花も一個一個違います。しかし派手な自性を持っていないので、同じに見えてしまいます。昨日の自分と今日の自分は同一ではありません。別人です。しかし、派手な自性を見いだせないので、昨日も今日も明日も、同じ自分だと思ってしまうのです。【アルボ
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2025年12月26日読了時間: 1分
四つの観察①:lakkhaṇa 特色・自性
四つの観察①:lakkhaṇa 特色・自性 特色という用語を解説してみると、結構面白いと思います。具体的な例で説明します。みなさんが愛用しているボールペンを取って、机の上に置いてください。同じブランドで同じ色のボールペンを誰かから借りて、机の上に置いてください。二本のペンは似ているので、いったん机の上に置いたら誰のものか分からなくなるでしょうか。いいえ、そうではありません。よく見てみれば、二本の同じ種類のボールペンの中から、自分が使っていたボールペンを見つけることができると思います。ここは特色・自性という概念がはたらいているところです。自分が愛用しているボールペンと、他のボールペンのあいだで、特別に違うところがあるのです。自分のボールペンだけが持っている、他のボールペンは持っていない特色があります。それがlakkhaṇa ということです。 Lakkhaṇa を見分けることによって一つの現象をもう一つの現象と区別することができるのです。花と葉っぱを区別できます。ブロッコリーとカリフラワーを区別できます。それぞれの品物が、自分が何者かと示す特色をla
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2025年12月25日読了時間: 2分
見清浄と四つの観察
見清浄と四つの観察 注釈書では、見清浄のとき、どのように観察するべきかを説明してありますが、かならずしもそのとおりにやる必要はないと思います。これから説明しますが、各修行者の能力に応じて、ある程度できるならば充分です。注釈書としてはすべてを説明する義務があるので、難しい説明になるのはやむを得ないところです。 修行者は物質の流れ(rūpa)と心の流れ(nāma)を区別して知っています。そこで複数のrūpa の中で何か一つのrūpa を選びます。また、複数のnāma の中から、何か一つを選びます。そして、選んだ現象をlakkhaṇa、rasa、paccupaṭṭhāna、padaṭṭhāna という四つの立場で観察するのです。これからこの四つの言葉の意味を理解しましょう。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p84】
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2025年12月24日読了時間: 1分
まずはrūpa の変化(流れ)に集中
まずはrūpa の変化(流れ)に集中 一つの例を出します。Nāma とrūpa の両方を観ることができるようになっています。しかし、両方同時に集中することはできません。まずはrūpa の変化(流れ)に集中してみます。次に、感覚の変化に集中してみます。次に、感覚と物質が一緒になって変化していくことに集中します。実況中継する言葉を探すのは大変だと思うところです。しかし実況を止めたら、実践は崩れてしまいます。今まで使ってきた言葉をそのまま使っても構いませんし、新たに頭に浮かんだ単語と入れ替えても構いません。言葉が行ったり来たりするのは構いません。「Nāma とrūpa」と確認したり、「感覚の流れ、物質の流れ」と確認したりします。それに飽きてきたら、もとの「膨らみ、縮み」などに戻ります。このように言葉は行ったり来たりします。しかし一貫して、新たに発見した智慧に基づいて観察をするべきです。このようなやり方で、見清浄がさらに強くなっていきます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p83】
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2025年12月23日読了時間: 1分
見清浄の成長
見清浄の成長 最初に現れる見清浄は、それほど強くありません。修行を止めたらすべて忘れてしまう可能性もあります。 見清浄を薄いままで放っておいて修行しても、次のステップに進めません。Nāma とrūpa の分離智が現れてから、その智慧に基づいて次の実践に進む必要があります。普通の実況中継で構わないのですが、「足を上げます」と実況するときは、足というrūpa の動きと、感覚変化というnāma の動きに集中するように励みます。ですから、さらに集中力が必要な作業になります。具体的なやり方は、各個人で工夫する必要があります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p84】
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2025年12月22日読了時間: 1分
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる しかし見清浄に達したら、これらの悩みは減ります。これらの悩みをもう少々、観てください。何か問題があります。それは「自我」が絡んでいることです。すべての悩みに「私は」という主語があります。「私がいない」という想定で実践しなくてはいけないのです。私がいない、という想定で実践できるようになってから初めて、現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになるのです。「私がいるわけではない」という気持ち・経験に達することが見清浄である、と理解しておきましょう。要するに、修行に対する不平不満が消えます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p83】
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2025年12月21日読了時間: 1分
修行者たちの悩み
修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄想が映像として頭をよぎります。呼吸が浅くなって確認できません。仕事上の問題がありまして、家族に問題がありまして、修行に集中するのは大変です。思考を止めなさいと言われるが、思考は人間にとって大事なものです。涅槃・解脱という境地はどのようなものかと、先に知っておかないと自信を持って修行に励むことはできません……などなどが修行者の悩みです。誰にだって身に憶えがあると思います。指導者はこのような悩みに決して対応してあげません。指導者のその無関心ぶりに対しても、不満をおぼえます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p83
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2025年12月20日読了時間: 1分
それなりの安らぎ
それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではなく、見清浄に達しているのです。そして、この段階にくるとそれなりの安らぎがあります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p82】
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2025年12月19日読了時間: 1分
nāma とrūpa の流れに過ぎない
nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、他の何者でもなくnāma とrūpa の流れに過ぎないのです」 これは、智慧がワンステップ進んだことを意味します。これだけの智慧が現れると、今まで悩んできた見解などが消えているはずです。神がいるか、如来がいるか、私がいるか、私は何なのか、等々の見解はきれいさっぱり消えているはずです。自分が修行で発見したのは、物質と感覚の流れだけであり、見解とは妄想と思考の産物であると知るのです。客観的に観察すると、見解などは一つも成り立たないのです。しかし人は、妄想・概念・見解の網に絡まって、苦労しています。人々と喧嘩します。自分の見解が正しいという前提があるので、自我
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2025年12月18日読了時間: 1分
nāma とrūpa を区別して発見する
nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です。それは動いています。動くときはかならず感覚が必要なのです。「物質の中に感覚の流れが入り込んでいるから、動きが成り立っているのだ」と発見します。今まで大雑把に「私・自分」という気持ちでいたのですが、それが変わります。「身体という物体があります」「その中に感覚が流れています」、このように二つに分かれて観えてくるのです。専門用語を使うならば、nāma とrūpa を区別して発見する能力が生じた、という段階です。ある程度の智慧が現れているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p81】
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2025年12月17日読了時間: 1分
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上げる、下げる、足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況しても、「私は手を上げています、下げています。私は足を上げています、運んでいます、下ろしています」というような気持ちです。「私」という言葉を使わなくても、その気持ちが入っているのです。または、「私の手、私の足」という気持ちがあるのです。修行者は「私の身体の動き」を実況しています。そのように、「私」という気持ちが入り込んでいるときは、修行自体がそれほど面白くありません。苦しく感じます。身体の痛みに、痒みに、悩みます。そして、痛みなどをなくす方法を模索します。それは初期段階です。集中力が現れてくると、痛み・痒
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2025年12月16日読了時間: 2分
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