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札幌仏教塾
滅尽定に入る過程
滅尽定に入る過程 サマタ瞑想で九番目のサマーディである無色界のnevasaññānāsaññāyatana 非想非非想処の禅定まで進んで、また自由に禅定に入ったり出たりする能力もある不還者か阿羅漢が、滅尽定に入る挑戦をします。どんなサマーディに入ろうとする場合でも、最後に心が禅定のステージに飛び上がるときの、決まっているステップがあります。それについて、本巻のサマタ瞑想編で詳しく説明しました。大事な用語だけここで繰り返して説明します。 まずはparikamma 遍作ステップです。禅定に入るための準備をするところです。それが終わったら、upacāra 近行ステップに入ります。心がこれから入ろうとするサマーディ状態に近づいてきます。次にanuloma 随順ステップに入ります。心がこれから入ろうとするサマーディとほとんど似た状態になります。最後のステップは、appanā 安止と言います。心はサマーディに入ります。色界・無色界の禅定に入る瞑想であっても、解脱に達するヴィパッサナー瞑想であっても、最後のステージはこの四つのステップで説明されます。..
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7月23日読了時間: 2分
Nirodha-samāpatti 滅尽定 に入った場合は、心の流れが完全に停止する
Nirodha-samāpatti 滅尽定 に入った場合は、心の流れが完全に停止する Nirodha-samāpatti は、普通のサマーディと違います。Nirodha-samāpatti に入った場合は、心の流れが完全に停止します。一つの心だけ続くという珍しい状況も超えています。心が止まるということは、決して理解できるものではありません。一般常識的に言えば、心が止まるとは生命が死ぬことです。修行者が前もって決めた時間が終わったら、肉体の中に再び心が現れて活動し始めるのです。この心が止まった時間は、どのように説明すればよろしいのでしょうか? 説明できません。 心がないから、何も認識しません。心がないから、揺らぎは起こるはずもないのです。俗世間的に見れば、「虚無状態」のように見えますが、お釈迦様は否定的な単語を使われません。究極の幸福の状態、究極の安穏の状態、苦が完全にない状態などの表現を使われています。専門用語を使うならば、涅槃に入っているということです。滅尽定というこの禅定は、聖者たちにのみ経験できるものです。 それでも滅尽定に入ることが
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7月22日読了時間: 2分
悟りに達した人にだけ経験できるnirodha-samāpatti 滅尽定
悟りに達した人にだけ経験できるnirodha-samāpatti 滅尽定 悟りに達した人にだけ経験できる特別な禅定があります。それはnirodha-samāpatti 滅尽定と言います。このsamāpatti に達することができるのは、不還者と阿羅漢だけです。 Samāpatti とは禅定に入ることです。禅定に入ったら、修行者の心は揺れ動くことはしません。自分が達したサマーディの心が連続して続きます。同じ心が連続して起こることは、日常生活ではあり得ないのです。日常的認識では、たくさんのデータを認識したり判断したりしなくてはいけません。人が夢も見ないで完全に熟睡しているとき、アビダンマ心理学では有分心が連続しているのだと言います。しかし熟睡の時間は長くありません。あとは夢を見たり、寝返りを打ったりしています。麻酔を注射して強引に神経回路の機能を低下させない限り、長い時間、熟睡状態でいることは不可能です。 サマーディに入る場合も、同じ心が連続して起こるという点から見ると熟睡状態に似ています。しかしサマーディの心は有分心と大違いです。サマーディの
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7月21日読了時間: 1分
観察瞑想も修行の経験を繰り返すことで果の心を延ばすことができる
観察瞑想も修行の経験を繰り返すことで果の心を延ばすことができる ヴィパッサナー・観察瞑想はサマタ瞑想とは違います。サマーディを目指していません。智慧を開発することと、煩悩を根絶して解脱に達することを目指しています。実践の仕方は変わっても、ヴィパッサナーも瞑想の一種です。集中力が現れますし、心は上達します。 修行者が瞑想に成功する場合は、最初に預流者になります。預流者になる瞬間には、預流道の心が一回起きて、預流果の心が二つ三つ起きて、終わります。修行者には何の管理もできません。しかし、再び観察瞑想を実践して、預流果に達した瞬間の経験を味わうことはできます。その場合は、預流道の心は起きません。Anuloma(随順)心の次に、預流果の心が連続して起こるのです。その時間は、修行の経験を繰り返すことで延ばすこともできるのです。一来・不還・阿羅漢という境地に対しても、方式は同じです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p175】
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7月20日読了時間: 1分
繰り返し同じ禅定に入る訓練をする
繰り返し同じ禅定に入る訓練をする 次に、禅定に入る(samāpajjanaṃ)という言葉があります。それは達した禅定を再び経験することです。最初に禅定を経験する場合は、修行者は上達します。上の次元の資格を獲得します。同じ禅定に再び入ってみると、禅定の安らぎをさらに経験することができるようになるだけです。新たな資格を取ったわけではありません。 修行者は禅定に入る経験があった方がよいのです。瞑想を教える場合、瞑想に成功したならば、繰り返し同じ禅定に入る訓練をするようにと指導されています。医者・弁護士などの職業の場合は、資格を取ってからインターンとして修業します。プロとして認められるのは、インターン修了後です。しかし新たな資格を取ったわけではないのです。サマーディに入る訓練は、インターンの修業と似ています。この訓練後、好きな時間、禅定に入ることができます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p174】
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7月19日読了時間: 1分
聖者たちのサマーディ・滅尽定
聖者たちのサマーディ・滅尽定 サマタ瞑想の場合は、サマーディを築くことが目的になります。色界のサマーディは五つです。無色界のサマーディは四つです。合計は九つになります。 修行者が最初にサマーディに達することは、何か難しい試験に合格するようなものです。試験を受けるときの自分と、試験に合格したときの自分は違います。前と違って、合格後はある資格を持っています。修行者が第一サマーディに挑戦するとき、心は欲界の中で回転しています。サマーディに達した瞬間に、色界の心が現れます。それで認識の次元が変わったことになります。上の次元に挑戦して成功するためには、心を乱す煩悩を機能しない状態にしなくてはいけません。同じ修行者が第二禅定から第五禅定まで進むときも、認識の次元が上がっていくのです。色界の第五禅定に達した修行者は、無色界の次元に挑戦する資格が得られます。無色界とは物質に決して依存しない心をつくることで達するところです。そちらにも四つの段階があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p174】
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7月18日読了時間: 1分
無明は四回も叩き潰さないと壊れない
無明は四回も叩き潰さないと壊れない 阿羅漢になると、avijjā 無明という煩悩も根絶されます。そこでまた問題です。智慧がなければ預流者にさえなれないでしょう。智慧とは無明がなくなった状態でしょう。阿羅漢が無明を根絶するならば、預流者・一来者・不還者にはavijjā 無明があることになります。 これはそのとおりですが、中身が違います。一般人の無明は、真理を何も分からない状態を意味します。これらの聖者たちは、たとえ弱いとしても存在欲を持っているのです。僅かでも存在欲を持っていることに、この場合は無明と名付けています。阿羅漢になると、やっと無明が跡形もなく根絶されます。ですから、無明とは煩悩の中で一番たちの悪い煩悩なのです。四回も叩き潰さないと壊れないものなのです。 もう一つの説明の仕方もあります。預流者から阿羅漢になるまで、四つのステージに分けて智慧を完成していきます。四つのステージに分けて無明を壊していきます。ですから無明をなくした度合いに合わせて、聖者が四種類になるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社
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7月17日読了時間: 1分
預流者から不還者まで聖者の心の中にいくつかの煩悩がある
預流者から不還者まで聖者の心の中にいくつかの煩悩がある 阿羅漢は色界・無色界に生まれる欲(色貪・無色貪)も根絶します。存在欲と離れないように絡んでくる煩悩もあります。一つはmāna 慢です。自分がいる、という実感がある限り、māna は続いているのです。しかし一般人のmāna ほど恐ろしい慢心ではありません。他の煩悩がなくなると、慢の力も弱くなります。次の煩悩はuddhacca 掉挙です。掉挙とは、心が落ち着かない、という意味です。それでは預流者も一来者も不還者も、落ち着かない興奮しがちな人々なのでしょうか、という疑問が生じます。落ち着かない、興奮する、集中力がない、とは一般人の心です。預流者から不還者まで、聖者の心の中にいくつかの煩悩があるのです。存在欲が、弱りながらであっても機能しています。それによって、心が揺らぎます。微妙にでも揺らぐ可能性があるので、uddhacca 掉挙が完全に消えてないことになります。阿羅漢になると、存在欲が完全になくなるので、かならずついてくる掉挙も死滅します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8
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7月16日読了時間: 1分
阿羅漢
阿羅漢 不還者に達した聖者がさらに修行するならば、悟りの最終段階である阿羅漢になります。阿羅漢になるためには、今まで残っていたすべての煩悩を根絶しなくてはいけません。阿羅漢道のとき、すべての煩悩が消えて阿羅漢果に達します。それから、その個人を阿羅漢と言います。 阿羅漢は輪廻転生はしません。死後、涅槃に入ります。不還者になるまでいろいろ煩悩を滅しましたが、存在欲は残っていました。かなりたちの悪い煩悩です。預流者になったところで、人間に生まれ変わることの上限は七回であると言います。これはつまり、存在欲が相当減ったという意味です。残っている存在欲の寿命が七回で終了します。一来者の存在欲は人間界に生まれ変わるならば一回で切れます。存在欲はさらに減ったということです。不還者は人間界に戻らないのです。欲界に関わる存在欲は、完全に消えたのです。しかし、色界・無色界という梵天に生まれる力を持っているのです。それも存在欲です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p172】
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7月15日読了時間: 1分
不還者は欲界に生まれることが不可能
不還者は欲界に生まれることが不可能 不還者になるときは、二つの煩悩が根絶されます。① kāmarāga 欲貪、五根から刺激を受けたいという欲(五欲)がなくなります。したがって欲界に生まれることが不可能になります。② byāpāda 瞋恚、欲と怒りはコインの裏と表のようなものです。五欲が消えたならば瞋恚も消えてしまうのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p172】
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7月14日読了時間: 1分
四十種類の出世間心によって死後どうなるのかは説明されていない
四十種類の出世間心によって死後どうなるのかは説明されていない アビダンマ学は明晰に分析する義務があるにもかかわらず、サマタ瞑想をしないで解脱に達する聖者たちの死後の生まれ変わりについて、詳しく分析していないのです。しかし間違っているとも言い切れません。心の種類を説明するときは、まず八十九種類あると説きます。その場合、出世間心は八種類です。また、心の種類は百二十一とも言います。この場合は、八種類の解脱の心を五種類のサマーディで掛けて四十種類の出世間心にしているのです。ただ、この分け方によって死後どうなるのか、という説明は避けています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p172】
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7月13日読了時間: 1分
不還者は死後、梵天に生まれ変る
不還者は死後、梵天に生まれ変る サマタ瞑想を実践しないで、ヴィパッサナー瞑想のみで阿羅漢果に達するまで修行できます。預流果などの聖者の位に達する場合、心は第一サマーディのレベルに上がりますが、それは一時的であると思われます。根絶した煩悩はそのまま現れませんが、集中力は普通の五根範囲の認識レベルに戻ると思います。その場合、預流者と一来者が死後、人間界に戻らないならば、適切な天界に生まれ変わることも可能です。それでも不還果のケースは違います。天界に生まれ変わることを可能にする煩悩はありません。心が乱れる要因はすべて消えています。不還者は死後、梵天に生まれ変わります。かならず浄居梵天というクラブハウスに入るのです。こういうところは明確に結論を出すことができません。註釈書も説明していません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p171】
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7月12日読了時間: 1分
不還者
不還者 一来者がさらに修行するならば、悟りの三番目のステージである不還者になります。不還者は言葉どおりに、死後、この世(人間界)に戻ってきません。浄居梵天という梵天に生まれます。そこで涅槃に入るのです。 浄居梵天とは、聖者たちだけに開かれた特別な梵天の次元のように見えます。しかしサマタ瞑想を実践するならば、色界の四つのサマーディに達します。サマタ瞑想をしなくても、預流果に達する場合、心は色界の第一サマーディになるのです。聖者たちは死後、人間界に生まれ変わらないならば、自分たちが達したサマーディに適した梵天に生まれます。浄居梵天とは、特別な梵天の次元というよりは、梵天の中で聖者たちのグループを示す言葉だと理解して構わないと思います。分かりやすく言えば、聖者たちだけに制限された梵天のクラブハウスのようなものです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p171】
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7月11日読了時間: 1分
一来者
一来者 預流者がさらに修行を続けて、次の聖者のステージに達したとしましょう。そのときは一来者と言います。貪瞋痴の力が薄くなるのです。弱くなるのです。この場合、根絶はしません。死後、一回だけ人間に生まれ変われる能力を持っています。もし人間に生まれ変わったならば、かならず阿羅漢になって輪廻を終了します。一来者の一来とは、一回だけ人間界に来られるという意味です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p171】
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7月10日読了時間: 1分
預流者
預流者 見と疑という煩悩を根絶することで、預流者になるのだとテキストにあります。詳しく言えば、有身見と疑と戒禁取という三つの煩悩を根絶します。預流者は決して地獄には生まれません。人間より以下の次元への生まれ変わりは絶対しない、という意味です。預流者は死後、人間として生まれ変わる可能性があります。しかし七回までです。七回までにはかならず阿羅漢になって、輪廻転生を終了するのです。預流者にsatta-kkhattu-paramo と言います。漢訳は極七返生です。転生は七回が上限、という意味です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p170】
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7月9日読了時間: 1分
四向四果による区別
四向四果による区別 このセクションは理解するのがとても簡単です。解説は要りませんが、少々まとめてみましょう。完全たる悟りは四つの段階で達するものです。第一のステージから聖者と正しく名付けるべき人格者になっているのです。ですから、聖者という個人は四種類に分けられます。 まずパーリ語の言葉を理解しましょう。預流果に対して① sotāpattimagga、② sotāpattiphala、③ sotāpanna という三つの単語があります。Sotāpattimagga とは預流道です。預流果になる道、という意味です。Sotāpattiphala とは、預流果です。第一ステージの悟りを意味します。Sotāpanna とは、預流果に達した聖者個人という意味です。① と② は心の状態を表す言葉です。③ はその心の状態が備わった個人なのです。日本語化すると、このニュアンスが伝わりにくいのです。Sotāpanna の日本訳を預流者という言葉にしました。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p170】
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7月8日読了時間: 1分
解脱は同じですが、名称だけ三つ
解脱は同じですが、名称だけ三つ 例えば、無我に集中して解脱に達した聖者は、一般の方々に「五蘊は空であると発見した」と説くでしょう。無常に集中して解脱に達した聖者は、一般の方々に「五蘊は無相であると発見した」と説くでしょう。苦に集中して解脱に達した聖者は、一般の方々に「五蘊は無願である、決して期待に値するものではないと発見した」と説くでしょう。 それで一般の方々は、誰の解脱が本物なのかと議論して、ひどい目に遭う可能性があります。修行する人々も、先輩たちが使う言葉がばらばらなので、疑問に陥る可能性があります。これはとても危険な状態です。解脱に達する道が閉ざされてしまう恐れもあります。しかし、お釈迦様がこの問題を見事に解決なさいました。無常・苦・無我という三相に合わせて、解脱に三つの名前を付けられました。解脱は同じですが、名称だけ三つです。解脱に達した人々の発表に使う表現も、それに合わせて変わります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p168】
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7月7日読了時間: 1分
普通の認識を駆使して自分の解脱の表現を考える
普通の認識を駆使して自分の解脱の表現を考える 解脱に達する人々は、それから他の人々にも解脱の道を教えます。解脱に達した先輩の聖者たちは、相手の悟りが本物なのか、調べることもします。本物なら認めてあげるし、そうでなければ間違いを直して指導します。解脱に達している瞬間では、何の概念も存在しません。それから普通の認識の流れに戻ります。普通の認識を駆使して自分の解脱をどのように表現するべきか、考えたりもします。無我に集中して解脱に達した聖者が自分の心を表現するときは、suñña 空という言葉を使うでしょう。無常に集中して解脱に達した聖者は、animitta 無相という言葉を使うでしょう。苦に集中して解脱に達した聖者は、appaṇihita 無願という言葉を使うでしょう。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p168】
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7月6日読了時間: 1分
七番目の智見清浄に入ったら、三相の一つに自然と集中する
七番目の智見清浄に入ったら、三相の一つに自然と集中する 一般的に修行する人々は、自分たちが修行の結果として悟りに達したならば、その解脱がどんな名称であるかは分からないはずです。前もって知る必要もありません。修行が七番目の智見清浄に入ったら、三相の一つに自然と集中してしまいます。名札はそれから付けるものです。そして実は、名札なんかはどうでもよいことです。解脱を三つにするのも余計な話です。しかし、解脱に三つの名称を付けたのはお釈迦様なのです。お釈迦様は無駄なことはなさいません。その意味を理解しておきましょう。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p168】
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7月5日読了時間: 1分
門で名札を取る
門で名札を取る 無常という本性を観察する門から解脱に入った場合、無相という名札を使います。ですから、無相道心、無相果心になるのです。苦という本性を観察する門から解脱に入ると、無願という名札を使います。ですから、無願道心、無願果心になるのです。無我という本性を観察する門から解脱に入ると、空という名札を使います。ですから、空道心、空果心になるのです。しかし解脱という境地には、何の差もありません。現象の三相に合わせて、名称を三つにしただけです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p168】
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7月4日読了時間: 1分
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