top of page
札幌仏教塾
直前と直後の因縁
直前と直後の因縁 ヴィパッサナー実践とは、今の瞬間の身体の感覚を確認することから始まります。「今の瞬間」というのは理解しがたいので、歩く・立つ・座る、という三つの行動をおこないつつ、そのときの身体の動きを確認します。確認作業を失敗なくおこなうために、「実況中継する」というやり方を取り入れたのです。別な言葉でいえば、感覚にラベリングします。そこまではみなさん方もよく知っています。 ラベリングはふだんおこなわないことですから、慣れるまでには時間がかかります。慣れてきたら、身体の動きを確認するときは、身体の感覚変化も明確に分かってきます。それから感覚をラベリングすることにするのです。例えば「左足を上げます」とラベリングする場合は、修行者の集中力は上がる左足の感覚変化につくのです。足を上げる、運ぶ、降ろす、とは物質の動きなので、結構遅く起こります。しかし集中力が感覚についたら、感覚の変化は確認できそうもない速さで起こることを発見するでしょう。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p104
sapporobukkyoujuku
2月7日読了時間: 1分
苦を乗り越えるための因縁関係なら発見できる
苦を乗り越えるための因縁関係なら発見できる 多次元的で発見しがたいという因縁関係を、私たち一般の修行者たちに発見できるものなのでしょうか? 人はすべてを知る必要はありません。自分にとって必要なもの、欠かせないものを知れば充分です。人は生きる苦しみを乗り越えなくてはいけません。そのために智慧を開発しなくてはいけないのです。智慧は順番に現れるものです。苦を乗り越えるために欠かせない因縁関係なら、発見できます。宇宙はどう現れたのか、どのように、いつ消えるのか、などは管轄外の話です。私の苦しみはなぜ生まれるのか、その苦しみはどのようにすればなくせるのか、ということが自分にとっては何よりも大切な問題です。これからそれに関わる因縁関係の発見の仕方を説明します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p104】
sapporobukkyoujuku
2月6日読了時間: 1分
因縁関係を発見すると一切の疑が消える
因縁関係を発見すると一切の疑が消える すべての現象のありさまは、因縁法則で理解できます。すべての現象は因縁により生じ、因縁により滅します。神がいるか否か、魂があるか否か、死後があるか否か、人間の運命は定まっているか不確定か、業のはたらきはあるか否か、生命はいつ現れたのか、などなど無数無限の問題があります。これら一つにでも納得のいく答えを出すことは誰にもできません。答えの形をとった曖昧な意見ばかりです。この状況は、疑という煩悩が繁殖するのに適した豊かな土壌です。前述のような質問はすべて、線形的な思考です。それも時間の流れを無視して考えています。一切の現象は因縁により生じ、因縁により消えるのだというのが正解です。残念ながらこの法則を発見するのは、人間にとって難しいことです。 しかし科学者は力ある限りがんばって、物質の因縁関係を探しています。たくさんの関係を発見していますが、まだ終わっていません。これからも新たな因縁関係を発見することでしょう。心の因縁関係に立ち入る余裕はないのです。心の存在さえも、まだ科学的に証明されていません。結論は、因縁関係を
sapporobukkyoujuku
2月5日読了時間: 2分
因縁は多次元的な関係
因縁は多次元的な関係 因縁関係は線形的にも並列的にも起こります。例えば、部屋で本を読むことができます。光が原因で本が見えます。この場合は線形的な関係ではないのです。まず光があって、光が消えて、それから本が見えるわけではありません。光はありつつ、です。その原因で本が見えつつ、です。並列的な関係を考えると、それは一つに限定されません。並列的な関係がいくらでもあり得ます。本を読むというケースを見ると、光があること、静かであること、本の内容が面白いこと、それを自分が理解できること、自分に時間があること、などなど、いくらでも挙げられます。 因縁とその結果の関係は線形的なものに限らない、並列的な関係もある、とするならば、因縁関係は一次元でも二次元でも三次元でもなく、多次元なものです。因縁の線形的な関係さえも大いに間違ってしまう人間にとって、因縁の多次元的な関係の理解など想像を絶したものでしょう。お釈迦様も悟りを開いてまもなく、人間に真理を語るのは止めた方がよいと考えられたようです。そのときも、因縁法則は理解しがたいと、明確におっしゃっています。...
sapporobukkyoujuku
2月4日読了時間: 1分
人生の中で親との関わりは取るに足らないほど短い
人生の中で親との関わりは取るに足らないほど短い ある四十五歳くらいの人が、私にこう言いました。「小さいとき、父親があまりにも厳しかったのです。それで私は、何の自信も持てない人間になってしまいました。今の仕事もうまくいかなくてトラブルばかりです。その原因は父親の厳しい態度だと思います」。本人は正しい考えだと思っていたのですが、これは完全な勘違いです。父親から離れて一人暮らしをした、ほぼ三十年の年月の変化を無視しています。厳しい父親も、二十四時間厳しいわけではありません。赤ちゃんのときは、まったく厳しくありません。厳しく対応するのは、母親の話を無視してわがままで、いたずらばかりする時期だけです。もしかすると十二歳から十八歳まででしょう。それも毎日ではないのです。何か悪さをしたときだけです。そのように考えると、その人の人生の中で父親との関わりは、取るに足らないほど短いものです。しかし因果の線形的な関係を誤って理解して、父親に対して恨みをいだいています。自分が独立してどのように生きてきたか、というのは計算に入っていないのです。 【アルボムッレ・..
sapporobukkyoujuku
2月3日読了時間: 1分
卵からニワトリは生まれません
卵からニワトリは生まれません 人間には線形的な思考は簡単に理解できます。ですが多次元的な関係になると、分からなくなります。因と果の関係は線形的に言えばいたって簡単な教えだと理解してしまいます。ニワトリから卵が生まれると言えば、分かりきったことです。見事な因と果ですね。ニワトリが原因で、卵が結果として現れるのです。線形的に考えがちですから、昔は「ニワトリが先か、卵が先か」という疑問をつくって無駄に遊んでいました。この質問は無意味だと知ってはいますが、今も答えを見つけてはいません。線形的にしか考えられないので、この問題に線形的に答えることは可能です。 卵からニワトリは生まれません。その結論が間違っているのです。卵は瞬間瞬間、さまざまな因縁の関係によって変化し続けています。「ニワトリが先か、卵が先か」というのは、止まることなく起こる変化の流れの中で、ある二つの時点のみをとって考えているのです。間を無視しています。卵が割れてヒナが生まれたように見えますが、生まれる前から卵の中にヒナがいたのです。もっとさかのぼってみると、卵の中にあったのは白身と黄身の
sapporobukkyoujuku
2月2日読了時間: 2分
因縁法則と疑の関係
因縁法則と疑の関係 見清浄に達するためには、修行者が観察するすべての対象をnāma とrūpa に区別できることが条件です。区別能力がついたら、一切の現象はnāma とrūpa で構成されるものであると、それ以上でも以下でもないという事実に目覚めます。これは見清浄の智慧です。四番目の度疑清浄に達するために、nāma とrūpa の因縁関係を観察するのだというのが、テキストの趣旨です。 これだけの説明では実践できないので、少々、解説する必要があります。仏説とは因縁法則です。しかしパーリ経典には、因縁の教えは人間にとってはあまりにも複雑で理解しがたいものであるとも説かれています。『清浄道論』を著したブッダゴーサ長老も、因縁の章に入ると自分は海に流されたような気分になると、ご自分の感想を述べています。因と果の相対性に気づいたナーガールジュナが、大乗仏教で有名な『中論』(空の思想)を作り上げました。ブッダが因縁を説かれたというのは正しい表現ですが、ブッダが一切皆空を説かれたというのは極論です。間違いとは言いづらいですが、言い過ぎだとは言えます。
sapporobukkyoujuku
2月1日読了時間: 1分
疑は証拠が充分そろったところでなくなる
疑は証拠が充分そろったところでなくなる どんな人であっても、真理とは何かとは分かっていません。発見していないのです。真理についていろいろな人がいろいろな説を出します。できる範囲でそれらを勉強してみます。しかし、「これこそ真理だ」と最終的に決定することはできません。いくら勉強しても、疑がうろついているはずです。私がいつも出す例があります。「地球が丸い。この事実について、疑はありません。異論は成り立ちません」。疑とは、証拠が充分そろったところでなくなるものです。この説明で、疑という煩悩が常に私たちの心のバックグラウンドではたらいているのだと理解していただければ幸いです。ヴィパッサナー実践で四番目の清浄に達したら、疑が晴れるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】
sapporobukkyoujuku
1月31日読了時間: 1分
自ら確かめていないので疑の煩悩がある
自ら確かめていないので疑の煩悩がある どこかの神様のところで供養すれば、子宝に恵まれます。商売繁盛します、宝くじが当たります、病気が治ります云々という場合は、何の躊躇もなくそちらへ行って、供養するのです。「私は現世利益のみを期待して供養したのです。人が解脱に達するべきであることは本当の真理です」と言って、自分の行動を正当化します。迷信については、テーラワーダ仏教徒も西洋やインドに負けません。お釈迦様は星占いはおかしいとおっしゃっているのに、ほとんどの人々は星占いを信じます。 では釈尊の教えを真剣に信じているテーラワーダ仏教徒たちの、この優柔不断は何なのでしょうか? それはとても自然な現象です。論理的に仏教が正しいと分かっていても、自ら確かめていないのです。ですから、疑の煩悩があるのです。疑の煩悩は、理解能力を揺るがします。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】
sapporobukkyoujuku
1月30日読了時間: 1分
疑は煩悩だから皆にある
疑は煩悩だから皆にある 疑という煩悩は、欲・怒り・憎しみ・落ち込み・後悔などの煩悩のように悪く見えたりはしません。ほとんどの人々は、自分に疑があると認めたくもありません。仏道においては何の疑もないのだと自賛したいのです。しかし、煩悩だから皆にあります。疑の煩悩は人々の理解能力を揺るがします。 ブッダの教えをまじめに信じている人がいるとしましょう。その人に、世界は唯一の神が創造したのだ、という話をしても、笑って否定するでしょう。しかし、このようなエピソードを妄想してみましょう。どこかで神が現れた、というニュースが流れます。人々は神が現れたときのビデオも撮っています。CNN やBBC など世界最大級のマスコミも大々的にそのニュースを報道します。科学者や知識人も興味を抱いて、議論します(これは決してあり得ないエピソードを妄想しただけです)。では、そのときあの仏教徒の仏教に対する自信満々な精神は、どうなることでしょうか? 揺らぐのです。世間に向けて「これは嘘だ。でっちあげられた話だ、創造主が存在するはずはありません」などとは言えなくなります。困ってし
sapporobukkyoujuku
1月29日読了時間: 2分
理論を実証することはできるのかと調べる
論を実証することはできるのかと調べる 仏教を学ぶと、ブッダの教えは正しい、真理が説かれているのだと、理解できます。それは知識的に納得しているだけです。自分で確かめたわけではありません。このような納得を、「信saddhā」と言います。科学の世界でも、さまざまな真理をまず「理論的にあり得る」と発見します。数学的にもそれは可能であると証明します。しかし科学的な事実の真理になっていません。確かなデータを集めて実証しなくてはいけないのです。論理的に数学的に立証されても、科学的な事実としては不充分です。論理的に数学的に納得した科学者が、さらに科学的な疑を持ってデータを調べます。理論を実証することはできるのかと、調べるのです。仏道においてもプロセスは同じです。ブッダの教えを学んで、議論して、他の教えと比較して、ブッダの教えが正しいとまず納得します。その人はそれから、実践して実証しなくてはいけません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p100】
sapporobukkyoujuku
1月28日読了時間: 1分
疑は預流果の悟りに達するとき根絶される
疑は預流果の悟りに達するとき根絶される 預流果の悟りに達するとき、疑という煩悩が根絶されるのです。分かりやすいので、疑の説明をまず註釈書に沿って書きます。三宝に対する疑、四聖諦に対する疑、因果法則に対する疑、無常・苦・無我に対する疑、仏道に対する疑、輪廻に対する疑、業の法則に対する疑です。表面的に見ると「仏教を疑っては駄目ですよ」というようなPR 文句にも似ています。 少々詳しく解説します。疑とは煩悩です。悟りに達していない限り、一切の生命にあります。三宝を疑っている、などの解説では、充分な説明になりません。なぜならば、仏教徒は三宝を疑いません。輪廻も業も真理として認めます。それなら教えを学んだ仏教徒には、疑がないことになります。しかし疑という煩悩は、預流果の悟りによってなくなるものです。ですから、仏教知識においては一流の人であっても、疑の煩悩があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】
sapporobukkyoujuku
1月27日読了時間: 1分
「疑」と呼ぶ煩悩を越える
「疑」と呼ぶ煩悩を越える では、ヴィパッサナー実践者が越える疑とは何でしょうか? 仏教を理解して実践に励んでいますから、修行者には精神病的な疑はありません。曖昧・中途半端な性格で、無知から生まれる疑もありません。また、真理を自ら確かめたいという理性的な疑を捨てたら、困ります。修行者が乗り越える疑は、不善心所の一つである疑心所です。一般的に言えば、「疑」と呼ぶ煩悩を越える、ということになります。この説明では、「なくす」ではなく、あえて「越える」という言葉を使っています。この智慧の段階では、疑という煩悩がなくなるのではありません。機能停止するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】
sapporobukkyoujuku
1月26日読了時間: 1分
理性的疑rational doubt
理性的疑rational doubt 世間の話、伝統、神話、普通に知識というもの、などなどを無批判的に認めたくない人々もいます。認めるためには、証拠を要求する。また、自分で調べたり、確かめたりする。これも疑なのです。しかしこのタイプの人々は、事実を探すのです。ただ、世間に騙されたくないだけです。これは理性的疑rational doubt です。または科学的な疑とも言います。このタイプの人々は、さまざまな事実を発見して世に貢献します。無知から出る疑ではなく、事実を知りたいという気持ちから現れる疑です。疑というよりは、探究心です。科学者・研究者・知識人が持つべき疑なのです。このタイプの疑は、お釈迦様も大いに賛成します。お釈迦様自身も、自分で調べて確かめない限りは、人の話に無批判的に乗ることはなさいませんでした。この性格があったからこそ、真理を発見して悟りに達することができたのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】
sapporobukkyoujuku
1月25日読了時間: 1分
疑とは何?
疑とは何? ヴィパッサナー瞑想の悟りの智慧の四番目は、kaṅkhāvitaraṇa 度疑清浄です。 ここでは一行で説明していますね。「その名色の縁の把握を度疑清浄という」。それしか説明していません。Kaṅkhā は疑い、vitaraṇa は渡る、という意味です。つまり、疑で悩んでいる状態を越えることです。これもヴィパッサナー実践により修行者が得る智慧の一つです。疑というといろいろです。 誰でも疑う、誰のことも信頼しない、という精神病に属する疑もあります。性格的に、人の話に乗らない人々がいます。その人々は、人の話を聞こうとも理解しようともしません。「大したことではないでしょう」という先入観を持って生きています。これも疑です。無知から発生するのです。 曖昧・中途半端に生きる。自分ではどうすればよいのか分からない。だからといって、人の話に乗って行動する勇気はありません。これも性格的な疑です。無知が原因です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】
sapporobukkyoujuku
1月24日読了時間: 1分
智慧が現れる過程を七つに分ける
智慧が現れる過程を七つに分ける 当然、ヴィパッサナー実践も日常でおこなうものではないので、修行中、変わった経験が起こり得ます。しかし修行者は、それに執着もしない。解釈もしない。そのまま確認して放っておきます。そして、智慧が現れることを期待します。脳の捏造機能を破るために精進するのです。智慧が現れると、先入観が一切なくなると、ありのままの事実が観えるのだ、というスタンスです。 ありのままの事実とは、無常・苦・無我・因縁法則です。言葉を変えると、四聖諦になります。しかし最初から仏教の概念を頭に入れておくと、それも先入観になります。無常を発見するのではなく、発見した気分になってしまう恐れもあります。無常は事実なので、その気分に陥りやすいのです。ですから智慧が現れる過程を七つの段階に分けて解説しているのです。見清浄とは、その智慧の三番目です。何かを経験してびっくりした、感動したではなく、具体的にものの見方が変わった、性格が変わったのです。ある程度は心が清らかになったのです。 人格は勝手に改善されます。それは法則です。修行者はひたすら確認作業だけを続けま
sapporobukkyoujuku
1月23日読了時間: 2分
神秘体験を得ることは目的でない
神秘体験を得ることは目的でない 例えば瞑想中、普通とまったく違った光を体験したとします。脳に起きた現象なので、否定する必要はありません。しかし「したがって、人の魂はまぶしく輝く光である」という哲学は駄目です。そのように言うための証拠はありません。長部経典の第一『Brahmajālasuttanta 梵網経』では、このポイントが明確に語られています。瞑想中、何を経験するか、分かったものではないのです。しかもその経験は、修行者の文化、教育、信仰、洗脳、マインドコントロール、人の影響などによって変わります。真理を発見するために役に立つものではありません。かえって邪魔です。 ヴィパッサナー実践は、瞑想のこの弱点を解決しています。先入観などが割り込むことはストップします。思考さえもストップしようとするのです。ありのままに観察するのです。何か経験すること、神秘体験を得ることは、目的ではありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p97
sapporobukkyoujuku
1月22日読了時間: 1分
刷り込まれた概念が現実のように現れる
刷り込まれた概念が現実のように現れる 宗教は信仰を大事にする教えです。実証することが不可能な、魂、神、仏、如来、真我などの概念をまずまじめに信仰します。それから、その信仰対象を実証する目的で瞑想するのです。瞑想がうまくいけば、修行者の頭に刷り込まれた概念が現実のように現れてしまいます。修行者にとっては実体験に感じますが、それが幻覚か本物かを区別する方法はありません。 瞑想に関するこの弱みを、お釈迦様は充分に知っておられました。お釈迦様は人の瞑想体験を否定なさいません。しかし、その体験に基づいてつくる思考を否定されます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p96】
sapporobukkyoujuku
1月21日読了時間: 1分
頭の中を先入観から解放しておく
頭の中を先入観から解放しておく ヴィパッサナー瞑想以外の瞑想では、何かを体験することを期待します。日常の五感から得る体験でないことは確かです。瞑想という、普通の生き方と違ったことをおこなっているので、日常と違った経験が起こることも決して不思議ではありません。ですから皆、簡単に「神秘体験」と言うのです。しかし神秘というほどのことではありません。「変わった体験」と言った方がよいかもしれません。 体験は二種類です。一つ目は、最初から頭に叩き込んだ概念を脳が現象にしてしまうケースです。脳がつくる幻覚ですが、本人にとっては目の当たりに起きた本物の体験として感じます。二つ目は、実体験です。要するに、体験したことが本物、ということです。そのためには、頭の中を先入観から解放しておかなければいけません。洗脳やマインドコントロールから解放しておかなくてはいけない。これは決して楽な作業ではありません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p96】
sapporobukkyoujuku
1月20日読了時間: 1分
見清浄とヴィパッサナーの特性
見清浄とヴィパッサナーの特性 お釈迦様の説かれたヴィパッサナー瞑想も、後に現れた仏教の瞑想も、ヒンドゥ教の諸宗派で教えられているヨーガ瞑想も、表面的にはそれほど差がありません。ヴィパッサナーでは、実況中継という言葉を使用します。他の瞑想では、何か決まったフレーズをかならず使います。「何の思考もせず、ただ座るだけだ」という禅の瞑想は、論理的に間違ってはいませんが実行しにくいです。実行不可能なら、結果も現れない恐れがあります。ヴィパッサナー実践、サマタ瞑想、ヨーガ瞑想、いずれも瞑想という言葉を使って言われるこれらは、思考が暴走することにブレーキをかけるものです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p96】
sapporobukkyoujuku
1月19日読了時間: 1分
bottom of page