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札幌仏教塾
空=一切の現象
空=一切の現象 あると思っていたのに、実際はないと分かったときは、無という言葉を使います。例えば、財布の中に金があると思っていました。開けてみたら、金はなかったのです。そのときは「金がない」と言います。 皆、「我がある」と思っています。しかし調べてみても、我は見つかりません。ですから、anattā 無我と言うのです。無我=空ですが、決して空=無ではないのです。空=一切の現象です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p167】
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7月3日読了時間: 1分
無常たる現象には変わらない芯たるものが何もない
無常たる現象には変わらない芯たるものが何もない 「attā 我」とは、現象の中に芯たる変わらない何かがある、という推測です。そうではなくて、無常たる現象が一時的に成り立つだけで、変わらない芯たるものが何もないならば、それはsuñña 空という言葉で表現されることになります。 Natthi 無とsuñña 空は同じ意味ではありません。無とは、有る・無しの関係です。「机の上にカップがありました。今、ない」という程度の話です。空とは、「有るが如く映る現象は有るが、本来の姿は空である」という意味です。机の上にカップがあるときも、そのカップは空です。机の上からカップを取り去ってからの状況も、空です。我は存在しないと発見することを、仏教用語でsuñña 空と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p167】
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7月2日読了時間: 1分
suññatā-vimokkha 空解脱
suññatā-vimokkha 空解脱 修行者が、魂とは何か、真の魂をどのように経験するのか、などなどの思考を持って世にあるさまざまな宗教や哲学を学び歩いている途中で、仏教にたどり着いたとしましょう。それで仏教を理解して修行します。観察瞑想が上達すると、一切の現象は無常・苦・無我であると観察していく。それで瞬間瞬間、生じて滅する現象を体験すると、普遍的で決して変化しない何か(我)は存在しない・成り立たない・あり得ないと発見します。これにより修行者の心は、一切の現象が持つ三つの本性の中で「無我」という本性に集中することになります。無我であると観察すると、思惟智が生まれます。無我という本性を対象にして、順番に種姓心、道心が生まれて、涅槃を対象にして果心が生じます。その解脱の名称は空解脱と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p167】
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7月1日読了時間: 1分
appaṇihita-vimokkha 無願解脱
appaṇihita-vimokkha 無願解脱 修行者の心が、七番目の智見清浄のステージで無常・苦・無我のうち「苦」という本性にロックされたとしましょう。修行者に一切の現象が持つ苦という本性が分かりやすくなるのです。それに集中します。思惟智で苦を観察するのです。苦を対象にして種姓心が生じ、次に道心が生じます。次に果心が生じて解脱に達します。 苦とは誰も祈願するものではありません。期待するものでも、望むものでもありません。ですからかえって、苦の世界で生きている限り、願は生起し続けます。解脱は答えです。そちらには願はありません。ですから苦に集中して解脱に達する場合、その解脱の名称は無願解脱となるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p166】
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6月30日読了時間: 1分
現象が持っているこの唯一な相を土台にして解脱に達する
現象が持っているこの唯一な相を土台にして解脱に達する 一般的に人々は、世にある無数無限の現象に互いに異なる無数無限の特色があると思っているのです。例えば、うどんとラーメンと蕎麦はそれぞれ違う食べ物であると思ってしまうようなことです。自分の好み・主観で見れば、うどんとラーメンは決して同じものではありません。しかし客観的に見れば、「何が違うの?」ということになります。 一切の現象についても、個人の主観で見れば特色(相)は無数無限です。客観的にありのままに正しく観察してみると、無数無限の相が消えて、「すべての現象は無常である」という一つの相に集約されるのです。現象が持っているこの唯一な相を土台にして解脱に達するので、解脱の名称は無相解脱となるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p166】
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6月29日読了時間: 1分
解脱の三つの名称animitta-vimokkha 無相解脱
解脱の三つの名称 animitta-vimokkha 無相解脱 七番目の智見清浄に入った修行者の心に、一切の現象の無常という本性がとても分かりやすくなって、自然にその本性に集中するようになったとしましょう。そのとき、修行者は無常という本性のみを観察しています。心に無常を観察するsammasana-ñāṇa思惟智が生じているのです。次に、gotrabhū 種姓という心が生じます。次に道心と果心が順番に起きて、解脱に達します。このように解脱に達する場合は、その解脱をanimitta-vimokkha 無相解脱と言います。これは、理解が難しい複雑な話ではありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p166】
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6月28日読了時間: 1分
心が一つの本性のみを観察するようになる
心が一つの本性のみを観察するようになる 七番目の智見清浄のレベルに入ると、心が興味をいだいた一つの本性のみを観察するようになります。要するに修行者は、無常を観察するか、苦を観察するか、無我を観察するか、いずれかです。さまざまな現象を観察すると、そのぶん、心の集中力が薄くなります。一つの本性に定めたら、集中力が徹底的に強くなります。七番目の智見清浄のゴールは解脱に達することです。ですから、一切の現象の本性である無常・苦・無我と解脱は、不可分の関係を持っているのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p165】
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6月27日読了時間: 1分
無常・苦・無我と解脱の関係
無常・苦・無我と解脱の関係 解脱に達するためには、一切の現象が無常であり苦であり無我であると観察しなくてはいけません。集中力が上がったら、修行者は五番目の道非道智見清浄に入るところから意図的に無常・苦・無我を観察してきました。そのとき、現象は互いに異なる三つの本性を持っているように観えます。さらに修行すると、無常・苦・無我のうち一つの本性だけが心によく分かるようになります。心はその本性にあえて興味を持ちます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p165】
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6月26日読了時間: 1分
自分の修行は完了したのだろうかと、観察する
自分の修行は完了したのだろうかと、観察する この観察が終わったら、自分の修行は完了したのだろうかと、観察します。まだいくつかの煩悩が残っていること、まだまだ感情が湧きでる可能性があることを発見します。それは残りの煩悩の観察です。 残りの煩悩の観察が、悟りに達してたちまちできるかどうかは分かりません。解脱に達したショックが冷めたところで、再び心を観察するやり方もよいと思います。遅かれ早かれこの観察をしないと、上位の悟りを目指して修行する意欲が起こらないのです。悟りを経験してから修行者がおこなう観察は、これで終了です。 七つの清浄の七番目は智見清浄と言います。観察が終了したところで、七番目の智見清浄が完成するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p163】
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6月25日読了時間: 1分
いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる
いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる 解脱に達することができたのは、釈尊の説かれた観察方法を実践したからです。したがって、苦を乗り越えるためには観察実践が正しい方法であるということになります。心を清らかにするために、魂を浄化するために、真我を体験するために、などなどの目的を設定して、その目的に達するために世の中でいろいろな方法が説かれています。それらはすべて間違いであると、修行者には実証済みです。ですから、「戒禁取」もありません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p163】
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6月24日読了時間: 1分
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる それから、今現在の心を観察します。何を発見して心が涅槃に入ってしまったのか、観察します。すると、自我は存在しない、成り立たない、因縁によって一時的に起こる現象に対しての勘違いに過ぎない、という発見の次に、涅槃を経験したのだと分かるのです。要するに、「有身見」が消えたのです。修行者は、仏道が正しい道であると経験しています。ですから「疑」もないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p163】
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6月23日読了時間: 1分
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する テキストでは、magga 道、phala 果、nibbāna 涅槃、根絶した煩悩、残りの煩悩を観察するのだと説明しています。この順番で観察する必要がある、というわけではありません。修行者は自分が気になる順番で観察すると思います。悟りの経験は並外れた大胆な経験です。そのときは、心さえも存在しなかったのです。修行者は、認識の流れが戻ったら、まずそれを観察するでしょう。生じることもなく、滅することもなく、作られたものでもない、完全な安らぎであると称すべき、涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p163】
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6月22日読了時間: 1分
強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する
強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する 果心が起きてから、心は有分心になります。それから普通の認識過程に戻ります。普通の認識過程といっても、五根から情報を得て混乱している心のレベルではありません。強烈な集中力で、観察能力がついている心です。その能力を活かして、観察します。ほんの瞬間前に何が起きたのか、観察するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p162】
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6月21日読了時間: 1分
ヴィパッサナー瞑想の禅定は解脱を経験するだけ
ヴィパッサナー瞑想の禅定は解脱を経験するだけ サマタ瞑想で達する禅定と、ヴィパッサナー瞑想の禅定は、決して似ていません。悟りに達するとは、大胆な出来事です。心は一切の現象の次元を破るだけではなく、煩悩も根絶するのです。道心も果心も、一切の概念が現れない、それらを超えた状態なので、修行者は解脱を経験するだけになります。煩悩がなくなったか否か、解脱に達したか否かなどを、考えられる境地ではないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p162】
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6月20日読了時間: 1分
後の観察
後の観察 果心が終わったら、paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智が生じます。「自分の心に何が起きたのか」と観察しなければなりません。 サマタ瞑想の場合も、禅定に達した瞑想が終わってからは、普通の認識の流れに入ります。そのとき、禅定の中身は何なのかと観察しなくてはいけません。ヴィパッサナー瞑想は初めから、観察瞑想です。ヴィパッサナー修行の結果として解脱に達することに成功した修行者は、その禅定が終わってすぐ、特別にアドヴァイスしなくてもかならず観察を始めます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p162】
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6月19日読了時間: 1分
Lokuttara-samādhi 出世間定が終わってから普通の認識のもとで確認する
Lokuttara-samādhi 出世間定が終わってから普通の認識のもとで確認する Lokuttara-samādhi 出世間定に入ったときは、すべての現象を乗り越えた解脱という真理の境地です。そのときは、思考どころか認識のはたらきもありません。しかし間もなく禅定が終わって、心は普通の認識過程に戻ります。そのとき、修行者は自分が解脱に達したことも、煩悩がなくなったことも、なくなった煩悩が再び現れないことも、苦しみを脱出したことも、確認します。それらの確認は、普通の認識のもとでおこなうのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6月18日読了時間: 1分
phala-citta は涅槃を対象にする ?
phala-citta は涅槃を対象にする・・ 心とは対象を認識するはたらきであると定義するのです。ですからphala-citta にも対象が必要であるという理論が成り立ち、涅槃を対象にするのだと言われています。涅槃とは、認識を超えた境地です。ですから、その説明は不可能です。涅槃・解脱を体験するのだと言って、お釈迦様もそこで終了します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6月17日読了時間: 1分
Phala-citta は究極の安らぎ、安穏を感じる
Phala-citta は究極の安らぎ、安穏を感じる Magga-citta 道心の次にphala-citta 果心が生まれます。解脱に達します。最後の心路で、果心は二つか三つ起きて、有分心になります。 修行者には、上位の悟りに挑戦しないで、今までおこなってきた修行をリピートすることが可能です。リピートして経験を強める必要もあります。同じ実践をリピートすると、再び悟りの禅定に入ることができます。預流果に達した修行者が瞑想をリピートすると、再び預流果心が現れるのです。預流果の禅定が現れたということです。そのときは禅定に入っている時間だけ、預流果心が繋がって起こります。しかし、預流道心は生まれません。 Phala-citta 果心には、特別な仕事はありません。Phala-citta は涅槃を対象にします。その心で究極の安らぎ、究極の安穏を感じるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6月16日読了時間: 1分
magga-citta は一人の修行者に四回しか起こらない
magga-citta は一人の修行者に四回しか起こらない 悟りは四段階です。悟りの各段階で、なくす煩悩がそれぞれ違います。ですから、magga-citta は一人の修行者に四回しか起こらないのです。その四回のmagga-citta も、同一ではありません。預流道心は一回しか起こりません。さらに修行すると一来道心も一回起こります。次の悟りを目指す場合は、不還道心が一回起こります。解脱を完了する修行に入った場合は、阿羅漢道心が一回起こります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6月15日読了時間: 1分
magga-citta とは煩悩を根絶する心
magga-citta とは煩悩を根絶する心 名前がmagga-citta なので、四聖諦の苦滅道聖諦ではないかと推測することもできません。解脱に達する瞬間まで、月日をかけて苦滅道を実践してきたのです。Magga-citta 道心のmagga とmagga-sacca 道諦のmagga は同じではありません。 Magga-citta は煩悩を根絶するという仕事をします。違いはそれだけです。Magga-citta の中に四聖諦が心所として入っているというよりは、magga-citta とは煩悩を根絶する心だとした方がよいかもしれません。 ですからmagga-citta 道心は一人の人間に一回しか生まれないのです。一回なくした煩悩を再びなくすということはあり得ません。同じ人を二回も三回も殺すことはあり得ないのと同じです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p160】
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6月14日読了時間: 1分
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