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札幌仏教塾
正しく四聖諦を発見すると諦随順智が現れる
正しく四聖諦を発見すると諦随順智が現れる 正しく四聖諦を発見するとは、諦随順智が現れることです。このときは、四聖諦は四つではありません。智慧一つです。これについて、無駄な議論は止めていただきたいのです。四聖諦が一つの真理になるはずがない、もし一つだというなら、それはどういうことだろうか、などと考えるのは、止めた方がよいです。四聖諦を発見するとは、真理はたった一つであるという立場で発見することです。このステージの修行者は俗世間の認識レベルを超えています。出世間的だと名付けるに相応しい智慧に達しているのです(まだ出世間の境地には入っていません)。ですから、四聖諦は真理であるという智慧に達します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】
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5月14日読了時間: 1分
知識は執着をつくる原因にもなる
知識は執着をつくる原因にもなる 俗世間的な知識で考えると、四聖諦とは四つの項目です。内容はそれぞれ違います。仏弟子は四聖諦を別々に理解します。例えば第一は苦聖諦です。そのとき、生老病死などを学びます。第二の集聖諦は苦をつかさどる原因なので、三種類の渇愛について学びます。三番目の滅聖諦は渇愛がない状態である、したがって涅槃であると、なんとなく理解するだけで終わります。四番目の道聖諦は八項目の八正道になります。それは理解できる項目なので、詳しく学べます。それから仏道を実践するということで、八正道を実践するのです。ヴィパッサナー実践という名前で『念処経』に説かれているように気づきの実践をしますが、これは正真正銘の八正道の実践です。しかしここまでの四聖諦に対する理解は俗世間的なもので、知識の範囲です。知識は執着をつくる原因にもなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p149】
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5月13日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:⑨ 諦随順智saccānulomika ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑨ 諦随順智saccānulomika ñāṇa 次に生まれるのは、諦随順智saccānulomika ñāṇa です。Sacca とはお釈迦様が語られた四聖諦のことです。仏道を学ぶ人々は、最初から四聖諦を学びます。徹底的に学んだとしても、弟子の理解は知識範囲に留まります。知識能力で理解できるところまで理解するのです。しかし知識とは、俗世間的な現象です。 知識によって執着が消えるという保証はありません。普通の知識なら、それは強烈に執着をつくります。仏教を学ぶとは、執着は苦の原因になるのだという真理を学ぶことです。だからといって、仏教知識を得たところで執着はなくなりません。かえって仏教の知識に執着を抱いてしまうのです。 執着をなくすために、知識ではなく実践が必要です。ここで説明する仏道の実践者は、実践の終局のステージに入っています。終局のステージで現れる智慧を諦随順智と言います。ここまできて、やっと四聖諦を分かったことになります。今までの四聖諦に対する理解はすべて知識です。今度は智慧が現れます。 【アルボムッレ・スマナ
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5月12日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:⑧ 行捨智saṅkhārupekkhā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑧ 行捨智saṅkhārupekkhā ñāṇa 火事になった寝室の話に戻りましょう。脱出したいという目的で寝室を観察しました。どこも危険で、寝室の中にいては助かるはずがありません。寝室のことは諦めて放っておかなければいけません。寝室はどうなってもいっこうに構わないという気持ちにならなければいけないのです。 一切の現象から脱出すべきであるという智慧に基づいて観察を続けた修行者は、一切のnāma とrūpa のことはどうなってもいっこうに構わないという気持ちになります。 今まで説明した智慧の段階では、心は次から次へと強いインパクトを受けてきました。今度は徹底して冷静な状況をつくるのです。そのためにも、またnāma とrūpa を観察しなければいけません。 いかなるnāma であれrūpa であれ、すべては無常です。すべては苦です。すべては無我です。すべては生滅の流れで成り立っています。放っておきましょう。すべては危険であると知った上で現れる冷静さは、尋常なものではありません。俗世間の人々に理解できそうなものでもないので
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5月11日読了時間: 1分
一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見する
一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見する Paṭisaṅkhā の意味を考えてみましょう。「これだからこうなっている。こうすればこのような結果になる」といった観察です。日常生活では普通におこなう作業です。例えば、このスイッチの上の方を押せば電気が点く、下の方を押せば電気が消える、などなどの観察です。その能力がないと、生きていられません。それは俗世間の能力です。 修行者は一切の現象を観察しています。脱欲智が生まれたので、脱出する目的を持って再び一切の現象を観察します。ですから、「これを押したらこうなる」というような感じの観察が必要になります。 仏教が推薦する脱出の境地は、世間常識では絶対、理解できるものではありません。ですからlokuttara と言うのです。Uttara とは、超越という意味です。Loka とは、世間という意味です。超世間と訳さなくてはいけなくなりますが、理解できる単語ではありません。一般的には「出世間」という言葉を使っています。 修行者の認識レベルは、今は常識レベルをはるかに超えて
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5月10日読了時間: 2分
六番目の行道智見清浄:⑦ 省察智paṭisaṅkhā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑦ 省察智paṭisaṅkhā ñāṇa 火事の喩えの続きです。燃えている寝室から脱出したくなるでしょう。しかし、その気持ちになっただけで、脱出成功とは言えません。まだ脱出を実行してもいません。脱出を実行する前に、やらなくてはいけないことがあるのです。それは火事になっている寝室を観察することです。正しく観察しないで脱出を実行すると、死んでしまうかもしれません。窓から逃げればいいやと飛び出したところで、自分は十二階に住んでいたと思い出しても、遅すぎます。廊下に逃げればよいと思って廊下に飛び出してみたら、廊下の方が火元で寝室までの延焼だった、ということもあり得ます。 ですから脱出を実行する前にやるべきことは、火事になっている寝室を観察することです。当然、どうすれば脱出できるのかという気持ちに基づいた観察です。修行者は実際の現象から脱出したいという脱欲智に達しています。それなら、今まで観察してきた同じnāma-rūpa という現象を観察するべきです。Vipassanā とは、明確に観察する、という意味です。今度は、脱出しますと
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5月9日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa 自分がいる状況は確実に危険であると分かれば、そこから脱出したくなります。自分の寝ている部屋が火事になってごうごうと炎が上がっていると発見したら、心は瞬時に脱出したいと思います。「きれいな部屋だったのに」「気に入っていたのに」「模様替えしたばかりだったのに」云々とは考えません。この喩えのように、修行者は一切の現象から脱出するべきだと発見するのです。この説明で一貫して「一切の現象」という言葉を使ってきました。 修行者は実際、何を観察するのでしょうか。身体と感覚のことです。Nāma とrūpa です。Nāma とrūpa とは、「自分」を構成するすべてです。ですから一般常識では、この脱欲智は理解できません。俗世間の言葉に変えると「自分自身が自分自身のことを怖畏だと感じて、自分自身から脱出したくなった」ということです。この文章の意味は全然理解できないと思います。つまりは、修行者にnāma-rūpa の生滅の流れから脱出したいという脱欲が生じた、ということです。「今いるところが危険
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5月8日読了時間: 2分
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa 一切の現象は怖畏のみをつかさどるのが本性であるならば、現象に対する未練を捨ててしまうのが理性的です。おいしそうに見える食べ物がある。食べたいという気持ちもある。その食べ物を徹底的に調べてみたところ、少量服用しただけでも死に至る猛毒で汚染されていると発見する。その発見と同時に、その食べ物に対して今まで持っていた未練は跡形もなく消えるのです。 現象をさらに観察し続ける修行者が、一切の現象に対する未練を捨ててしまうのです。この状況を厭離智と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p146】
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5月7日読了時間: 1分
一切のものごとの短所を発見する
一切のものごとの短所を発見する ありのままの現象を観察する修行者には、いとも簡単にすべての現象の短所が観えます。短所という言葉を使ったからといって、滅する現象に長所があるわけではありません。ただ怖畏だけ感じても、智慧は足りません。なぜ怖畏なのかと、明確に知った方がよいのです。言葉にすべき理由などはありませんが、現象はなぜ怖畏なのか、明確に発見します。「こういうわけで現象は怖畏です」というような発見が起きます。観察するどんな現象についても、この智慧が当てはまります。俗世間の言葉に入れ替えるならば、一切のものごとの短所を発見することに成功したのです。この智慧は過患智です。 この智慧も、心にさらに強いインパクトを与えます。現象は「ただなんとなく怖畏」ではないのです。怖畏は現実です。一切の現象は確実に怖畏のみを与える特色を持っているのだと発見すると、インパクトはさらに強くなります。執着は成り立たないということ、執着するとはあまりにも愚かな行為であることを、さらに強く発見します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2
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5月6日読了時間: 1分
悲観主義者ではなく現実主義者
悲観主義者ではなく現実主義者 海の喩えに戻れば、なんとか理解できると思います。ぼろぼろになった浮き輪に頼って大海のまん中をさまよっている人が、自分の置かれた状況を観察すると、常識を超えた恐怖を感じるでしょう。だからといって、やることはないのです。ただ、自分の状況を観察します。浮き輪に目をやる。見るからにぼろぼろです。波に当たるたびに、古くなったゴムが壊れていきます。決して強くなったり、新しくなったりはしません。自分の身体を見る。潮の中にいるので、身体が壊れていきます。決して、健康な身体になるわけではないのです。高い波が来る。それに当たったらどうなるのか分かる。サメなどの魚を見る。サメが自分を見つけたら、何をするのか分かる。決して、背中に乗せてどこかの島へ運んでくれるはずはありません。このように、周りにあるものはすべて、自分の死を早めるものばかりであると観ることは悲観主義でしょうか? 悲観主義者ではなく現実主義者です。もしその人が楽観主義者になって、「言葉を喋れるウミガメが来て、きっと自分を陸地まで運んでくれるに違いない」と思っても事実は変わらな
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5月5日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa
六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa 修行者は、滅するばかりの一切の現象に対して怖畏を感じました。執着することは想像もつかない愚かなことであると、この時点で当然、知っています。しかし知ったからといって、煩悩という感情は消えません。もしかすると観察能力がまだまだ足らないかもしれません。智慧がまだまだ足らないかもしれません。修行者はさらに集中力を上げて、nāma-rūpa を観察します。具体的に一つ一つの現象の何が悪いのか、何が危険なのかを観るようにします。 このように説明すると、修行者はあえて悲観主義者になろうとするのではないかと誤解するかもしれません。それは言葉では説明できない心の状況を、ここであえて言葉で説明しているからです。修行者はわざと悲観主義の色眼鏡をかけたりはしません。修行を始めたときから、主観でものごとを観る癖を直してきたのです。客観的にありのままにものごとを観察する能力を育ててきたのです。今さら、何かの偏見に乗る必要はありません。修行者はただ、高度に育てた集中力で現象を観察しているだけです。Nāma であれr
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5月4日読了時間: 2分
助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着する
助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着する もう一つ、喩えを出します。人が大海のまん中で遭難したとしましょう。ぼろぼろになった浮き輪くらいはあります。それもそれほど長持ちしないと分かっています。浮き輪のゴムが波に当たって壊れていくのです。こんなとき、かならず助かると思って、いい気になっていられるでしょうか。東西南北どこに流されても、限りのない海です。遠くに船が通るのが見えても、水面から頭しか出していない自分は絶対、気づかれません。そのまま無事にいることができたとしても、浮き輪が壊れていきます。水の中にいますから、結局は身体も壊れていきます。下から大きな魚に襲われて自分が食われてしまう可能性もあります。助かる見込みは、一兆分の一もありません。ほぼ皆無です。この場合は「怖くてたまらない」という言葉さえも当てはまりません。常識的な怖さを超えています。 現象はすべて滅するのだと発見した修行者が、この喩えと似たような、常識を超えた、しかし理性に基づいた怖さを感じるようになります。 この状況は、前よりも強いインパクトを心に与えます
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5月3日読了時間: 2分
執着ばかりをして生きてきた生き方が愚かだったと分かる
執着ばかりをして生きてきた生き方が愚かだったと分かる 蛇が怖いと思う人は、蛇を抱いたりはしません。抱いてみようと妄想もしません。逃げたいのです。一切の現象の滅を観てから、心に怯えが生じます。そして何ごとに対しても、執着したいという気持ちは微塵もなくなるはずです。このステージでは執着がなくなるのではなく、今まで執着ばかりをして生きてきた生き方がどれほど愚かだったか、分かります。怯えるべきもの、怖いと思うべきものに対して、執着をしていたのだと分かるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p143】
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5月2日読了時間: 1分
滅よりも強烈なインパクト・怯えを感じる
滅よりも強烈なインパクト・怯えを感じる 俗世間の話を止めて、修行者の心の中を覗いてみましょう。修行者はnāma であれrūpa であれ、一切の現象は確実に滅するのだという事実に引っかかっています。滅ばかりが気になっているのです。そうすると心が法則的に「怯え」を感じなくてはいけませんから、当然、怯えを感じます。しかしこの怯えは、「財布がなくなった」というときの怯えのようなレベルの低いものではありません。修行者の認識レベルはとっくに常識を超えています。修行者は、一切の現象が確実に滅するのだと知っています。何一つも頼りにならない。何一つも執着するに値しない。なんでもかんでも瞬時に消えてしまう。滅してしまう。なくなってしまう。ここで、滅を感じたときよりも、強烈なインパクトが生まれるのです。怯えを感じるものに対して、誰も執着しません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p143】
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5月1日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:③ 怖畏智bhaya ñāṇa
六番目の行道智見清浄:③ 怖畏智bhaya ñāṇa まず世間話から始めましょう。世間話なら理解しやすいです。何か壊れた、なくなったと言われたら、どんな気持ちになるでしょうか。あなたの家に泥棒が入って高価なものをすべて持っていかれた、通帳もハンコもカードも持っていかれたと言われたら、またそれが事実であるならば、どんな気持ちになるでしょうか。その気持ちは、明確に言葉で表現できないかもしれませんが、分かりやすく言えば「怯え」を感じます。 なくなることを妄想すると、不安になります。仕事がなくなったら、貯金がなくなったら、親が亡くなったら、家に泥棒が入ったら、などなどを妄想すると、不安でたまらなくなります。これは心の法則です。なくなる、ということが事実であると分かったら怯えを感じたり、なくなるだろうと分かったら不安を感じたりするのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p142】
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4月30日読了時間: 1分
滅の流れに心が引っかかってしまう
滅の流れに心が引っかかってしまう ここでは、修行者が生滅を観られる能力を育てたところで、滅するという特色に引っかかってしまったのです。それは自然な流れです。普通の世界でも起こることです。滅の流れに心が引っかかってしまったら、さらに強いインパクトが生まれます。そのインパクトにより、貪瞋痴などの煩悩を抱くことが余計で無意味であると、さらに分かってきます。心が一切の現象の「滅する」という特色に引っかかってしまうことが、壊滅智です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p142】
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4月29日読了時間: 1分
生より滅するという現象の方がインパクトが強い
生より滅するという現象の方がインパクトが強い 俗世間のレベルでも、似た現象があります。赤ちゃんが生まれたとしましょう。皆、感動します。楽しくなります。しかしそのうち、誕生のときの喜びが消えてしまいます。子供が亡くなったとしましょう。そのときの悲しみは、誕生の喜びよりは強烈です。忘れられません。月日が経っても、心には悲しみが刻まれています。要するに、生じるという現象より、滅するという現象の方がインパクトが強いのです。 観察する修行者の心は、現象の生滅ではなく、現象の滅に引っかかってしまいます。すべての現象はことごとく生滅の流れで成り立っているのだと発見したときも、心に強いインパクトが入ります。そのインパクトにより、煩悩が揺らいでしまいます。煩悩とは無知な人々が余計につくる感情であると、分かってしまうのです。 現象の本当の姿が生じて滅することであるならば、執着をしたり、欲を抱いたり、怒ったり、希望をつくったりするのはあまりにも無意味な、成り立たない、無駄なことであると分かります。ですから、観察から生じる「インパクト」が大事なのです。...
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4月28日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:② 壊滅智bhaṅga ñāṇa
六番目の行道智見清浄:② 壊滅智bhaṅga ñāṇa 修行者は五番目の道非道智見清浄のステージでたくさんの観察方法を試したはずです。Nāma とrūpa に分けて観察したり、五蘊として観察したり、眼耳鼻舌身意(六根)と色声香味触法(六処)とそれから生じる眼識耳識鼻識舌識身識意識(六識)などに分けて観察してみたりしました。さらにすべての現象を無常・苦・無我の三相に合わせて観察してみました。 観察能力が向上して、現象の変化の流れに合わせてみようとしたところで、心が生滅の流れに引っかかってしまったのです。生滅を観られるようになると、さらに詳細に観察したくなります。生滅ばかりを観察していても、自分が精進している気持ちが弱くなってしまいます。今のステージの修行者は、決して精進する意欲を弱めません。さらに詳細に観察しようとすると、生と滅という二つの特色の中で、滅するという特色が際立ってきます。生じるという特色よりも、滅する・消える・無くなるという特色の方が認識しやすく、分かりやすくなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式
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4月27日読了時間: 1分
生滅智は心が勝手に現象の生滅に引っかかってしまう状態
生滅智は心が勝手に現象の生滅に引っかかってしまう状態 上達した修行者も、普通に現象を確認しようとします。雑念が割り込んでこないので、明確・精密に確認できます。現象をnāma とrūpa に分別することもできます。現象の変化のスピードに合わせて確認しようとすると、生滅の流れが際立ってきます。集中力が、現象にではなく、生滅していくことに入ってしまいます。生滅の流れが気になるのです。引っかかるのです。この世には無数の現象があるようですが、結局、すべては生滅の流れに過ぎないのだと、分かってしまうのです。修行者が何を確認しても、心が勝手に現象の生滅に引っかかってしまう状態は、生滅智と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p141】
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4月26日読了時間: 1分
生滅という現象は自分勝手に出てくる
生滅という現象は自分勝手に出てくる 雑念が割り込んだりしている修行者には、このように正知を伴うsati の実践は難しいです。六番目の行道智見清浄のステージに入った修行者になって初めて、できるようになります。 この世にはときどき、先走りしたがる人々もいるものです。その人々は、無理やり生滅を観てやろうと試します。そのときは、推測や思考が絡んでいるのです。本物の智慧ではありません。先走りする癖を直さなくてはいけません。私は個人的に、このようにアドヴァイスします。「無理に思考を活かして生滅を観る必要はありません。それでも、それは事実ではないのかと異論を考える必要もありません。生滅という現象は、自分勝手に出てきます。自分勝手に出てきたら、生滅だと確認しなさい。そこまでは普通の膨らみ、縮みの実況で結構です」 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p140】
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4月25日読了時間: 1分
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