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札幌仏教塾
自然に集中することができるようになる
自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負けずに続けてみると、実況中継は苦労しないでできるようになります。言い換えれば、実況中継に慣れてしまいます。実況中継がマンネリになります。これは心清浄だとしましょう。要するに、集中力が現れたのです。自然に集中することができるようになったのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p80】
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2025年12月15日読了時間: 1分
見清浄に達するために
見清浄に達するために 特別に何もする必要はありません。ただヴィパッサナー実践を続けておこなうだけです。心の成長のためには、何かを繰り返し、繰り返しおこなう必要があるのです。ここで修行者は、気づきの実践を繰り返しおこないます。今までおこなったことがない仕事なので、慣れるまでは大変苦労します。しかし徐々に慣れてくると、心も徐々に成長する。徐々に安らぎを感じられるようになる。 Visuddhi(清浄)という名前で説明しているのは、心がどのように成長していくのかという順番です。心の成長はここで説明している各清浄の順に起こります。一つを飛ばして次に行くことはできません。清浄に達したい、という気持ちさえもよくないのです。そのとき幻覚が生じて、清浄の妨げになります。ですから、ひたすらヴィパッサナー実践を続ければ充分です。 素直にヴィパッサナーの気づきの実践をおこなう修行者は、まず戒清浄に達します。そして次に、心清浄に達します。さらに修行を続けると、自然に見清浄に達するのです。このとき、修行者には「これが見清浄だ」という実感は起こりません。修行者の瞑想経験から現
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2025年12月14日読了時間: 1分
もしかしたら何かがあるはず、という気持ち
もしかしたら何かがあるはず、という気持ち 我々人間は、神、守護霊、先祖の霊、ただの霊、精霊、山、川、海、水、火、雷、風、聖地、樹木、岩、蛇、馬、ライオン、ワシ、狐、龍、等々の何かを信仰して、何かに頼って、安心感を獲得するのです。存在欲に燃料を供給します。それらは空(から)の安心感ですが、否定する勇気はありません。もしかしたら何かがあるはず、という気持ちは消えません。このような生き方が、見解の網に絡まった生き方なのです。そう簡単には抜けられません。 見解にはまっているとは、存在欲にはまっていることでもあります。存在欲があると当然、怯え、恐怖感、不安からも抜けられません。これは怒りの感情です。この両方が、無知だから起こります。要するに、「見解がある」とは、心が汚れていることなのです。 例えば、「私は神を信仰して謙虚にまじめに生きています」と宣言する人々がいます。自分は信頼できる、やましいことをしない人間だと言いたいつもりでしょうが、仏教の見解の説明から通訳すると、「私は見解と貪瞋痴の罠にはまっていることを自慢に思っています」という意味になります。もし
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2025年12月13日読了時間: 2分
皆、見解の網に絡まっている
皆、見解の網に絡まっている 知識を駆使すると、見解の間違いが見えます。しかし否定する勇気はありません。何かの不幸に遭遇した人に、「これも神の思し召しです」と言えば、一神教の信徒でもないくせに落ち着きます。「こんなアホな考え」と否定する勇気がないのです。親しい人が亡くなって、人が悲しみに陥っているとき、「阿弥陀様のお迎えで極楽浄土に往生されました」と言ってあげれば、何の躊躇もなく納得します。そのときに、「私はそんなことは知りません。知っているのは、親しい人が亡くなって寂しくてたまらない、という現実のみです」と相手に言う勇気はありません。そしてこれは、勇気だけの問題でもないのです。人に対して失礼な言葉を発しない方がよいのです。自分の心は無数の見解の網に絡まっています。たとえ勇気を振り絞って、「神様や阿弥陀様は信じません」と言っても、相手から「あなたは自分が知っていることだけがすべてだと思っているのですか?」と反論されたら終わりです。信仰がある人もない人も皆、見解の網に絡まっているのですから。 見解のない人は存在しません。「私は何も信じません」と言う人
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2025年12月12日読了時間: 2分
見解を破る
見解を破る 解脱の境地に達する修行者は、捏造機能を止めるのです。自然に捏造してしまう習慣がなくなった状態は悟りであると、釈尊は説かれます。 修行を始めた私たちに、いきなり捏造機能をストップすることはできません。それには長い修行が必要です。順番に進めばよいのです。最初は見解を破るところからです。すべての見解がいい加減な幻覚であると発見するのです。目覚めてみるのです。 我々の心は、どれほどの見解・信仰・迷信・思考・哲学などで抑えられていることでしょうか? 心はくたくたです。何の自由もありません。人々は、お祈りするわ、祈祷するわ、除霊してもらうわ、占ってもらうわ、パワースポットを巡って宇宙の力を入れてもらうわ、風水・方位学に凝るわ、特定の信仰がないわりにすべての宗教が同じ真理を語っていると思ってどんな宗教にも敬意を抱いたり脅威を感じたりするわ……、きりがないのです。こんな生き方は、自由な生き方でも安らぎの生き方でもありません。貪瞋痴に、渇愛に、徹底的に束縛されている生き方です。見解の爆撃を受けているために、人間はみじめに生きているのです。【アルボムッレ
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2025年12月11日読了時間: 1分
なぜ見解が悪いのか
なぜ見解が悪いのか 概念は、都合により自然に起こる捏造です。存在欲があるから、生きていきたいから、データを捏造するのです。炊いた米を「おいしいご飯だ」と捏造すると、欲が生まれる。ネズミの死骸を「不潔で気持ち悪い」と捏造すると、怒りが生まれる。牧草を「ただの草ではないか」と捏造して無関心な態度をとると、無知が生じる。このような概念を掻き回すと、貪瞋痴がなおさら強くなります。見解という幻覚になるのです。 捏造はやめられません。ネズミの死骸が気持ち悪いと捏造した人に、「でも、カラスにとってはね、それはご馳走ですよ。気持ち悪くないんですよ」と教えてあげれば、その事実を理解することができます。しかし「私がこの世で死んでも天国で永遠の命になります」という幻覚に陥った人をどのように諭せばよいのでしょうか。お手上げです。私は神に創造された唯一大事な存在ですよ、という幻覚に陥っている人を、どのように目覚めさせればよろしいのでしょうか? 見解をつくる人々は、激しい貪瞋痴に束縛されています。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013
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2025年12月10日読了時間: 1分
見解は捏造した概念の組み合わせ
見解は捏造した概念の組み合わせ 見解とは具体的にはどういうものでしょうか? 「私がいる」「私に魂がある」「世界は神が創造したものである」「全知全能の神がいる」「死後永遠の命がある」などです。宗教と哲学は組織化された見解なのです。すべての迷信も、極めて厄介な見解です。人間のあいだで一体どれくらい見解があるのか、知るすべもありません。古い見解を受け継いだりもしますし、他人の見解を学んで受け取ったりもしますし、新たな見解をつくったりもします。ただ、見解は何であろうとも、決まって捏造した概念の組み合わせなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p77】
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2025年12月9日読了時間: 1分
捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくる
捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくる 捏造する段階は、どうしようもありません。ネズミの死骸を見て、「ご馳走だ」と捏造することは、カラスにとって問題ではありません。しかし、人間がネズミの死骸を「ご馳走だ」と捏造したら困った結果になります。ですからかならず、捏造はその生命の都合に合わせて、自然に起こります。もし捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくったならば、それは仏教用語で「見解」と言います。見解はとてもたちが悪いです。「間違っている」と、はっきり言えるものです。捏造は概念です。概念は客観的な事実ではありません。ありのままの真理ではありません。捏造した概念は、嘘だとも事実だとも言えません。ただ、その生命の都合に合わせただけです。この都合とは、生存することです。生き延びることです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p77】
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2025年12月8日読了時間: 1分
見解の世界から脱出
見解の世界から脱出 見解が人の命を支配しているのです。Diṭṭhi 見解は概念から現れます。我々の概念は正しくありません。各生命は自分の都合に合わせて、六根に入る客観的データを合成して捏造して概念にします。 例えば「草」という単語を考えてみましょう。視力のあるヤギがその対象を見て、「おいしい食べ物だ」と捏造する。人間は「ただの草ではないか」と無関心な態度をとる。それは人間の捏造です。ネズミの死骸があるとしましょう。それを見る人間は、「不潔で気持ち悪いものだ」と捏造する。カラスは「ご馳走だ」と捏造する。そのように、誰もが、あるがままにものごとを認識しないのです。認識データは、「自分にとってどうなのか?」というスタンスから捏造するものなのです。金を見る人間は、「高価なものだ。欲しいなあ。なんてきれいなんだ」などの感情で認識するでしょう。金属である金を見ていないのです。猫なら、金が目に入ってもきっと無関心な態度をとるでしょう。自分にとっては関係のないものだからです。このように生命は、五根に入るデータを自分の都合に合わせて捏造します。思考能力がある人間は
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2025年12月7日読了時間: 1分
妄想が確認作業の邪魔をしない状態に達したら、心清浄
妄想が確認作業の邪魔をしない状態に達したら、心清浄 第一禅定に挑戦する修行者は、まず近行定に達します。ヴィパッサナー瞑想実践のためには、近行定の力でも充分です。あるいは、サマタ瞑想をまったくおこなわないでヴィパッサナー瞑想を始めても、一向に構いません。ヴィパッサナー実践で確認実践を続けると、思考・妄想は暴走しないところまで精神的に進むことができます。サマタ瞑想は結果を出すまでに時間がかかります。ですからサマタ瞑想を抜かして、ヴィパッサナーから修行を始めても構わないのです。サマーディの経験がなくても、解脱に達します。解脱に達するとは、煩悩を寝かしてあげることではなく、壊すことです。ヴィパッサナー実践が進んで、悟りに達するところに近寄ったとしましょう。そのとき、精神状態は第一禅定の近行定レベルです。悟りに達する瞬間で、心は第一禅定の力を持っているのです。というわけで、伝統に従ってサマーディ瞑想が済んでからヴィパッサナーに入る方法を取らなくても構わないということができます。ヴィパッサナーのみの方法は、結果が早いです。 ヴィパッサナー実践する方々は誰でも
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2025年12月6日読了時間: 2分
思考・妄想が暴走しない状態
思考・妄想が暴走しない状態 サマーディが上がると、集中力が上がります。各サマーディで体感する経験も変わるのです。無色界のサマーディに達すると、心が物質に依存してはたらくことをやめます。 ヴィパッサナー瞑想に入ると、修行者がどんなサマーディに達しているのか、ということは問いません。実践的に言えば、無色界の四つのサマーディに達して、そのままいるならば、ヴィパッサナー実践はできなくなります。ヴィパッサナー実践で、物質(色)のはたらきも、心のはたらきも観察しなくてはいけないのです。ですからサマーディに入ったまま、ヴィパッサナー実践はできません。何かのサマーディに達して、五蓋を睡眠状態にしてもらいます。それから、眼耳鼻舌身意から情報を受け取って認識をおこなう普通の状態に戻って、ヴィパッサナー実践を始めるのです。ここで必要なのは、サマーディのお陰で心が暴走しない状態を獲得することです。思考・妄想が暴走しない状態とは、ある程度は心が清らかになった、ということです。ですから、心清浄というのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サン
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2025年12月5日読了時間: 1分
第一禅定でも心清浄は完了する
第一禅定でも心清浄は完了する アビダンマ的には、サマーディのステージが九種類あります。どんなサマーディに達すれば、心清浄に充分と言えるでしょうか。ヴィパッサナー瞑想では、これを大きな問題として扱うことはしません。思考が暴走しない、安定した精神状態に達すれば充分です。ですから、「近行定か安止定」とだけ言われています。 昔の修行者には、修行する暇が充分にあったので、修行者は一生かけて修行するつもりでいました。ですから、基本的なサマタ瞑想から修行を始めたものです。色界の第一禅定から第五禅定まで達しようと努力して、各個人の精神力に応じた結果を得ます。五番目の禅定に達する人もいれば、第一禅定で止まる人もいます。強い精神力の持ち主であるならば、無色界の四つの禅定に挑戦することも可能です。どちらの禅定に入っても、仏教心理学では「五蓋を睡眠状態にしたことである」と説明します。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p74】
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2025年12月4日読了時間: 1分
概念をかき回すことは、感情をかき回すこと
概念をかき回すことは、感情をかき回すこと思考・妄想するとは、概念をかき回すことです。各概念には何かの感情が付いています。例えば金、食事、教科書、ライバルなどの言葉は、心にとっては概念です。これらの言葉を一つ一つ読むと、各概念に何かの感情が付いているのではないでしょうか? その感情は人によって違います。言葉に感情が付いているのではなく、主観的な概念に感情が付いているのです。つまり、心の中で概念をかき回すことは、感情をかき回すことになります。ですから思考・妄想するたびに、煩悩が増えるのです。 心が常にやっているこの仕事は、ヴィパッサナー実践にとっては仇敵です。仇敵が活発にはたらくと、ヴィパッサナー実践を続けることはできなくなります。戒律を守っているのに、心が破れているのです。そのとき、近行定か安止定があれば、この問題は解決します。心が汚れていない状態になります。それで落ち着いて、妄想に邪魔されることなく、観察することができるようになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p74】
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2025年12月3日読了時間: 1分
安定した精神状態
安定した精神状態 近行定か安止定に達した心は、精神的に安定するのです。常に集中力が備わっていますし、感情の波は立ちません。眼耳鼻舌身意から入る情報に、揺らがないでいることができるのです。これは解脱ということではありません。活発にはたらいていた煩悩が睡眠状態になったのです。五根の情報に限られたことしか認識できなかった心が、その次元を超えたのです。解脱に達する仕事は、これからです。 ヴィパッサナー実践の場合は、「感覚を確認する」という作業をおこないます。そのときは、心が激しく攻撃します。その攻撃とは、とりとめのない思考・妄想の流れです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p74】
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2025年12月2日読了時間: 1分
五つの蓋
五つの蓋 仏教心理学には、五蓋という用語があります。心が超越状態にならないようにかけられている五つの蓋ふたのことです。五蓋とは、① kāmacchanda 欲愛、② byāpāda 瞋恚、③ thīna-middha 惛沈・睡眠、④ uddhacca-kukkucca 掉挙・後悔、⑤ vicikicchā 疑の五つです。基本的には貪瞋痴のことですが、貪瞋痴のさまざまな機能を言い表しています。貪瞋痴ではなく五蓋という場合は、心が超越状態にならないように抑えておくはたらきを言うのです。人間で言えば、各人には自分自身の本名がありますが、人をタクシー運転手、教師、医者などと呼ぶ場合は、その人がどのようなはたらきをしているのか、ということを意識しています。本名よりも仕事を意識するのです。これと同じように、心の成長を妨げる仕事をする貪瞋痴は、そのはたらきを意識して言う場合には、貪瞋痴から五つの蓋という呼び名に変わるのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p73】
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2025年12月1日読了時間: 1分
戒清浄の次に心清浄に達しなくていけない
戒清浄の次に心清浄に達しなくていけない 解脱を目指してヴィパッサナー実践をおこなう修行者は、戒清浄の次に心清浄に達しなくてはいけません。修行者に、近行定か安止定が必要です。サマーディに似ている状態か、サマーディに達した状態を、なぜ「心を清らかにした状態」としているのか、その理解が必要です。 戒律・道徳を守ることで、心の煩悩がしょっちゅう牙を剥いて心を乱すことをやめることができます。これに成功すると、煩悩に悩まされることなく、安らかに生活することができるのです。しかし、心の煩悩は活性化したままです。ただ戒律に邪魔されて、表に出ないだけです。心の中では煩悩がかき回されています。それで修行者はサマタ瞑想をします。瞑想が成功して、禅定に達します。禅定に達するとは、活性化している煩悩を睡眠状態にすることなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p73】
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2025年11月30日読了時間: 1分
心清浄とはサマーディのこと
心清浄とはサマーディのこと サマーディは八種類(アビダンマの分類では九種類)です。どんなサマーディに達するにしても、決まって二つのステップをたどります。1 upacāra-samādhi 近行定 サマーディ瞑想をすると、心がサマーディに完全に似た状態に達します。2 appanā-samādhi 安止定 心がサマーディ状態に達します。 近行定の場合は、修行者が瞑想中であるならば問題ありませんが、瞑想を中断するとその状態もなくなる可能性があります。不安定です。近行定から安止定に達したならば、本格的なサマーディです。その精神状態は、瞑想を中断しても壊れません。しかし気をつけて生活しないと、睡眠状態になった煩悩が目醒めてしまう可能性があります。煩悩が目醒めたら、サマーディ状態が壊れます。そうなると、また初めからやり直しです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p72】
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2025年11月29日読了時間: 1分
戒清浄の完成
戒清浄の完成 戒清浄の場合、在家の方々は五戒、八戒、十戒などを学べば充分です。出家は四種類の戒律を守ります。出家・在家を問わず、戒律を守る目的を理解しなくてはいけません。戒律を守ったからといって、煩悩の根絶はできません。しかし戒律を守らない、道徳を重んじない生活をするならば、我々の生き方は獣の生き方と何の違いもないのです。煩悩の反乱を抑えるために、戒律を守ります。心清らかに保つために、冷静に生活することができるように、戒律を守るのです。時たま牙を剥こうとする煩悩を、その都度その都度、邪魔して抑えるために、戒律を守るのです。 心に煩悩が根づいているので、持戒は初心者には楽ではありません。しかし実践してみると、心が落ち着いてきます。道徳を守ることが自分の自然な生き方になるのです。そうして心が穏やかになったならば、戒清浄は完了です。 解脱に達するまでは、人間は不完全です。いくら注意して生きていても、過ちが起きます。ですから修行者は、日夜「懺悔」をするのです。その日に過ちを犯しても犯さなくても、どうでもよいのです。不注意で何か間違ったことをやった可能性も
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2025年11月28日読了時間: 2分
競争の激しいこの世界で気楽に生きる
競争の激しいこの世界で気楽に生きる 食べるものや着るものなどは、いとも簡単に煩悩を刺激します。ちょっとした不注意で、寝ている煩悩が牙を剥いて暴走してしまいます。ですから、資具を使うたびに、釈尊の説かれた最低基準に基づいたフレーズを心の中で念じるのです。 この戒律は、在家には関係ありません。出家が念じる経典文句を唱える必要はありません。しかし理解しておけば、毎日の生活のストレスがなくなると思います。在家生活としての基準を超えて余計なことをやっているのだと理解していけば、競争の激しいこの世界で気楽に生きることができると思います。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p71】
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2025年11月27日読了時間: 1分
衣・食・住・薬を必要とする意味を理解する
衣・食・住・薬を必要とする意味を理解する 俗世間は、「生きていきたい」という生存欲の衝動でまわっています。出家はこの罠にはまってはなりません。出家は、生きていきたいという生存欲を断って、解脱を目指します。ですから、決して満たせない欲を満たそうとする愚かな努力をいい加減にやめるのです。その方法はいたって簡単です。資具に対して、最低の基準を心に徹底的にインプットするのです。そして、最低の基準を理解するだけではなく、衣・食・住・薬を必要とする意味も理解します。 例えば、出家が食事をする目的を念じます。出家が皆、暗記する経典文句があります。「体力をつけるためではない。食欲にふけるためではない。美しくなるためではない。ただ、この肉体を維持するためです。空腹という苦しみを和らげるためです。修行の助けにするためです」。衣を着るときも、衣を着るたびに念じるべき経典文句があります。「寒さ暑さを避けるために、蚊・虫・蛇・風・陽射しなどに触れることを避けるために、恥ずかしいところを隠すために、この衣を着ます」。椅子、ベッド、住むところ等を使用するときに念じるフレー
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2025年11月26日読了時間: 2分
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