top of page
札幌仏教塾
疑は無数の哲学・宗教をつくる
「今日は何曜日ですか?」という問いの答えは決まっているのです。もし人が、今日は何曜日ですか、と明確に知っているぐらい、「生きるとは何か?」という問いに答えを見つけた場合は、一切の疑がたちまち消えてしまうので当然のことです。...
sapporobukkyoujuku
4月16日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
正理 (ñāya)で疑が消える
現代人もいまだに魂について議論しています。いまだに誰も、最終的な結論に達していません。これからも、地球上に人間がいる間は、議論が続くだろうと思います。ということは、議論では理に達しない、という証拠なのです。しかし、「地球が丸い」という意見には、異見がありません。最終的な答え...
sapporobukkyoujuku
4月15日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
世間の「正理」はこうして現れる
「Ñāyassa adhigamāya 正理を得(るための)」。日本語訳では正理と書いています。文字通りそれでいいと思います。Nāya は八聖道でもいいですが、「論理」ということでもあるし、「もののあり方」という意味もある。自分に対する、世間に対する方法というか、システムと...
sapporobukkyoujuku
4月14日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
痛みの観察で「智慧」を開発する
いつでも痛いわけではなくて、痛みはそれなりの波を打っていることが分かります。さらに進んだらもう一つ分かるのです。そこに心が行くから痛いのであって、そこに心が行かなかったら痛くないのです。分かりやすく言えばその場所を自分が知っているから痛いのであって、知らなかったら痛くはない...
sapporobukkyoujuku
4月13日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
気持ちいい
我々は、「楽しい」とか「気持ちいい」とか言いますが、この「気持ちいい」ということ自体も痛みなのです。例えばマッサージしてもらうと気持ちいいと感じるでしょう。もともと痛みがあったならば、マッサージを受けて、「ああ気持ちいい」と言うのです。でも本当は、マッサージ自体が痛みなので...
sapporobukkyoujuku
4月12日読了時間: 1分
閲覧数:4回
0件のコメント
「痛み」の正体/「痛み」が正体
基本的に、細胞というのは痛みで生きているのです。皆、痛みは消えてほしい、消えてほしいと思うのですけど「それならば死んでください」としか言えません。痛みは消えないのです。なぜならば細胞というのは痛みで生きているので、他の感覚はないからです。楽しい感覚、快楽の感覚は細胞にはない...
sapporobukkyoujuku
4月11日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
心の明るさは消えません
次のatthaṅgamāyaは「なくす、消える」という意味なのです。だからと言って、「覚った人をぶん殴っても痛くない」ということではありません。身体の痛みはありますが、ただ身体の痛みだけで、精神的には痛みは全くない。愁いと悲泣の場合は乗り越えるのです。外のことですから、それ...
sapporobukkyoujuku
4月10日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
気づきの実践によって乗り越える
sokapariddava は外に起きる出来事で、dukkhadomanassa というのは自分に起きる出来事で、どちらにしても人間は大変苦しみを味わってしまうのです。良いものではないのです。そういうものによって、人間の幸せ、やすらぎ、心の安定というのは壊れてしまうのです。...
sapporobukkyoujuku
4月9日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
苦しみと憂いが消える
次に「dukkhadomanassānam atthaṅgamāya 苦しみと憂いが消える」。Dukkha とは身体で感じる普通の苦しみです。Domanassa は心で感じる悲しみ。分析しようとすれば、いくらでも分析できます。先ほどのsokapariddava...
sapporobukkyoujuku
4月8日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
愁いと悲泣が心に生まれない
地震が起きたらsati を実践する人と、実践しない人には差があるのだということは事実です。実践しなかった人はひどい愁いと悲泣に陥ってもう立ち上がれなくなってしまう。しかし、satiを実践している人は、別に何のこともなく、そのときそのときのやるべきことをやってずうっと生きてい...
sapporobukkyoujuku
4月7日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
愁いと悲泣を乗り越える
愁いと悲泣を乗り越える 〔目的の〕二番目は、「sokaparidevanaṃ samatikkamāya 愁いと悲泣を乗り越えるために」です。この瞑想をすれば愁いも悲泣も乗り越えられる。しかし、奇跡が起こるということではありません。『Mahāsatipaṭṭhānasutt...
sapporobukkyoujuku
4月6日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
心の清らかさ
道を歩むのであれば、その道を歩んでどこへ行くのか、という目的が必要なのです。それが「sattānaṃ visuddhiyă 衆生が清浄になるために」です。この一つの道は、清浄の境地に至るための道なのです。ブッダゴーサ長老が、テーラワーダ仏教の瞑想方法を全てまとめた著書も「清...
sapporobukkyoujuku
4月5日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
まぁどこからでもいいから
誰かが虫垂炎に罹って手術を受けようとしている。主任の医者が自分の弟子に手術を任せたとします。先生は弟子に向かって、「まぁどこからでもいいから切ってよ」とは言わないでしょう。きちんとメスを入れる場所を決めてあって、そこをまた何cm切るかと厳密に決めてある。「どこから切っても...
sapporobukkyoujuku
4月4日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
一つの道
仏弟子たちがよく勉強して教えを理解したところで、我々が苦しみをなくして涅槃に至るためにどうすれば良いかと問えば、「一つの道」しか答えがないのです。『Mahāsatipaṭṭhānasutta 大念処経』と他の経典は、その点で違います。この経典は仏教をよく知って理解した人に向...
sapporobukkyoujuku
4月3日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
不変性を表現している
「A があるときB が生まれる」と言うとA とB の間には必然的な関係が生まれている。ですからA があるときB があるのであって、A があるときたまたまB があるというわけではないのです。或いは「ほとんどA があるときB...
sapporobukkyoujuku
4月2日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
必然的な関係
お釈迦様は人間が生きていること、存在そのものについて研究して、システムを発見して、それをしゃべっているのです。それがたまたま厳密に論理的になっただけです。世のなかにあることだから、それは当たり前のことです。お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B...
sapporobukkyoujuku
4月1日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
理の如くに意識をはたらかす
yoniso-manasikāra (ヨーニソー マナシカーラ)という言葉がありまして、漢訳仏教語では「如理作意」となっています。理とは「ものの理」のことです。その「理の如く」に「意識(意)をはたらかす(作す)」ということなのです。いいかげんに自分の感情、感覚で、自分の好き...
sapporobukkyoujuku
3月31日読了時間: 1分
閲覧数:3回
0件のコメント
ありのままに見る
正しい観察の仕方という意味で、パーリ語でいつでも使うのはyathābhūtaṃ passati(ヤターブータン パッサティ)「如実に見る」という言葉です。日本語で人気のある“ありのままに見る”という言葉はその訳です。日本語では一般的な言葉になっていますが、その意味は全然分か...
sapporobukkyoujuku
3月30日読了時間: 1分
閲覧数:2回
0件のコメント
一つの方法しかない
人の意見に対して柔軟な態度をとっても構いませんが、実践になると曖昧な方法ではいけないのです。あのやり方でもこのやり方でも良いのではないかと言われると、どうすれば良いのか分からなくなるのです。ですから、心を清らかにするならば、悩み苦しみをなくすならば、一つの方法しかないと決定...
sapporobukkyoujuku
3月29日読了時間: 1分
閲覧数:1回
0件のコメント
認識に至った過程
お釈迦様は他宗教の方々の考えについて一方的に批判することを止めて、その認識に至った過程が正しいか否かを調べるのです。要するに、お釈迦様は認識論(epistemology)を大事にしたのです。他人の意見に対しては、その意見に達した方法が客観的で事実に基づいているか否かを調べて...
sapporobukkyoujuku
3月28日読了時間: 1分
閲覧数:3回
0件のコメント
bottom of page