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札幌仏教塾
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑵
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑵ ヴィパッサナー瞑想とは、かなり激しい実践方法です。落ち着いてできるものではないのです。必要な智慧が現れて、心が本格的に解脱へ向いてから、落ち着きの訓練になるのです。その落ち着きに達したら、saṅkhāra-upekkhā-ñāṇa 行捨智と言います。Saṅkhāra は行ですが、この場合は解脱に達するために必要とする条件(三十七菩提分法)のことです。Upekkhā とは、「捨」と訳しますが、この場合は善心所の力のバランスを平等に整えることを意味します。Ñāṇa は智慧です。 もう一度、山火事の話に戻りましょう。ヘリが来ました。自分は安全なところにヘリをガイドしました。縄ばしごも下りてきます。自分は身の安全を図ってしっかりとはしごを昇る準備をして、構えています。行捨智とは、そのような段階です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p53】
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10月30日読了時間: 1分
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑴
観智:⑨ 行捨智は平安な心 ⑴ 次に、saṅkhāra-upekkhā-ñāṇa 行捨智が生まれます。すべての行・ものごとについて、捨の気持ち、喜ぶこともなく嫌うこともなく、捨の、平安な気持ちが生まれてきます。 ヴィパッサナー実践をする人々は、七覚支を完成しなくてはいけないのです。また瞑想に必要な条件として、五力、四神足などなど、三十七菩提分法があるのです。それらは基本的な観察瞑想を続けると、徐々に成長していきます。 個人差もあります。必要な条件の成長は、バラバラです。最後に必要な条件をすべて完成して、うまく精神的にバランスを整えなくてはいけないのです。一般的に言えば、極力落ち着くことの訓練をするのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p53】
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10月29日読了時間: 1分
観智:⑧ 省察智は思惟智に似ている
観智:⑧ 省察智は思惟智に似ている 心が解脱の方向へ向いたら、ある程度の落ち着きが起こります。ヴィパッサナーの智慧が現れていく過程で、心が激しいインパクトを受けるのです。未だかつてなかった真理が観えてくるので、インパクトが強いのです。④怖畏智が現れてくると、道場から逃げ出したい気分にまでなるものです。そのとき、指導する方々は、修行者をよく守って、励ましてあげます。 ⑤過患智、⑥厭離智までは、一切の現象は完全に危険で悪いものに観えても、どうすればよいのかという答えもなかったのです。そこで ⑦脱欲智が現れます。勢いよく広がりつつある山火事に人が包囲されていたとしましょう。逃げ場がないのです。死ぬことを覚悟して、怯えなくてはいけないのです。そのときは心が落ち着かないでしょう。 極端に危険な状態に陥ったそのとき、空からヘリが飛んできて縄ばしごが下りてきたとしましょう。もう安全ですね。ある程度、落ち着きます。⑧Paṭisaṅkhā-ñāṇa 省察智はこのような状態です。 だからといって、ヘリから縄ばしごが下りるだけで、問題は解決しません。自分がもう一度、周
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10月28日読了時間: 2分
生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」
生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」 修行するときは、「解脱」という言葉で頭を悩ませることはしません。「妄想してはいけない」と叱られる結果になります。生きるとは何かと観察させているのです。この観察が完了して、智慧が現れているのです。生きることは無価値です。生きることに未練はなくなりました。俗世間は完全に処分するべきゴミのように、山火事に包囲されたように、感じているのです。このように、生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」こそが、本物です。この時点までくると、解脱したいという「気持ち」ではありません。解脱するより他の方法はない、という発見であり、智慧なのです。 心理学的に説明すると、次のようになります。心は今まで俗世間の方を見て観察していました。ここへきて俗世間の観察は完了して、未練も消えたのです。そこで心の向きが一八〇度変わります。世間向けの心が、出世間向けになるのです。何の躊躇もなく、一切を捨てられる心境になっているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p51】
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10月27日読了時間: 1分
観智:⑦ 脱欲智は解脱したい気持ち
観智:⑦ 脱欲智は解脱したい気持ち 次に、脱欲智muccitukamyatā-ñāṇa(muñcitukamyatā-ñāṇa)です。解脱したいという気持ちが生まれるのです。そう言うと、疑問が起こりますね。「最初から『解脱したい』という気持ちでヴィパッサナー実践を始めたのではないでしょうか?」という疑問です。簡単に言えば、修行を始めるときの「解脱に達したい」という気持ちは、本物ではなかったということです。今度は本気です。優柔不断も曖昧さもなく、覚悟しているのです。 仏教を学ぶ誰もが、お釈迦様が解脱を推薦しているのだ、涅槃に達すべきと説かれるのだ、と知っています。しかし、その境地をかならず自分も経験しなくてはいけない、というところまではいきません。「ブッダの教えにはまったく偽りがないので、涅槃という境地も本当かもしれません」という程度の理解です。深く仏教を学んで、実践に励む意欲を起こした人々は、解脱に達したいと思います。その気持ちは、「涅槃は究極な安らぎである」というお釈迦様の言葉に頼って起きたものです。何かを分かったわけではないのです。【アルボム
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10月26日読了時間: 1分
根本的な衝動が薄れていく
根本的な衝動が薄れていく ヴィパッサナー実践をすると、生きることの本当の姿がバレます。無上の価値あるものではなく、無価値であると発見します。そのとき起こる我が身に対する気持ちの変化を、厭離智と言うのです。 修行者の心に現れる各智慧によって、人格も変わるのです。過患智では、「命は尊い」という錯覚がなくなります。執着も薄れます。すべての生命は、生き続けなくてはならない、という切迫感で必死です。生命は誰でも、何としてでも生き続けたいと思っているのです。生きることで何を得るのかも分からない。なぜ生きるのかも分からない。ただ生き続けたいと思っているのです。これは無知と言います。 過患智が現れたら、生きることが無価値であると発見します。厭離智が現れたら、何としてでも生き続けなくてはいけない、という衝動は消えます。これは大変な人格向上なのです。一切の生命が持っている、根本的な衝動が薄れていく段階です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p50】
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10月25日読了時間: 1分
観智:⑥ 厭離智は自分を丸ごと厭う気持ち
観智:⑥ 厭離智は自分を丸ごと厭う気持ち 過患智から、厭離智nibbidā-ñāṇa が生まれてきます。Nibbidā とは、嫌うことです。興味を失うことです。諦める気持ちです。価値がないと分かったら、自然に生まれる気持ちです。 喩えで説明します。人が金色のネックレスを持っています。二〇カラットくらいの宝石も付いています。素人なので、百万~二百万円あたりの値打ちがあるものだと思ってそのネックレスを大事にします。いざとなったら、換金することもできると信じています。あるとき、念のために専門家に鑑定してもらいます。専門家が、この金属は金ではなく金メッキだと鑑定します。宝石はうまくできた人工石だと分かります。では鑑定額は? 千円です。そのようにネックレスについて事実を発見したら、持ち主はどんな気持ちになるでしょうか。勝手に妄想していたときの興味はなくなります。執着は薄れます。未練がなくなります。頼りになるものだ、換金できるのだ、という希望も消えてしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p50】
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10月24日読了時間: 1分
vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤
vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤ ヴィパッサナー実践をする修行者は、まず客観的に観察して、生きるとは何かとデータを集めます。そして ①思惟智が現れます。命とは生滅している流れである、と発見します。次に ②生滅智が現れます。現象は派手に壊れるものである、と発見します。次に ③壊滅智が現れます。今まで生きることに喜びを感じましたが、今度は生きることに対して、恐怖を感じるのです。そして ④怖畏智が現れます。 ⑤結論として、命には何の価値もない、と発見します。「生きていきたい」という執着がある限り、苦しみの虜になってしまう、と発見します。分かりやすく俗っぽく言えば、生きるとはろくでもないことだ、と発見することです。しかしこれは、品のない言葉ではありません。超越した智慧なのです。何にも、何の価値も成り立たない、と発見することです。これは無価値論だと言うべきところです。過患智とは、偏見で長所を無視して、短所だけ取り上げるやり方ではないのです。無常たるものには、価値は成り立たない、という智慧のことです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学
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10月23日読了時間: 1分
命は儚い
命は儚い 命には無上の価値があるとしっかり信じてはいるものの、同時に「死ぬのは怖い」とも思っているのです。命に無上の価値があるといって強烈に執着していますが、現実は違います。命は儚いものです。あっけなく死にます。苦労して、やっと命を繋いでいるだけです。それを頭では理解することができます。しかし、気持ちは変わりません。 命には無上の価値があるという錯覚と、命はあっけなく壊れる儚いものであるという現実が、頭の中で混乱状態をつくります。気持ちと現実は正反対です。心の中で常に対立が起きているのです。この葛藤は耐えがたいものです。それで心は暴走し始めます。さまざまな妄想概念をつくって、葛藤を沈静化しようとするのです。これはそう難しい話ではありません。「身体が壊れても、魂は不滅です」「人は死後、天界に生まれます」「永遠不滅の天界があります」「人間とは、慈悲深き全知全能の偉大なる神様の作品です」「人間のことを神様は無条件で愛しています」「人々は神に守られています」などということは、よく聞く話でしょう。こうした言葉は一つとして、立証されたわけでも、理解して経験し
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10月22日読了時間: 2分
観智:⑤ 過患智は無価値の発見
観智:⑤ 過患智は無価値の発見 次の智慧は、過患智ādīnava-ñāṇa です。Ādīnava というのは、disadvantage ということで、「悪いところだけを見る」ということです。ものには長所と短所の両方がありますが、短所だけ見えてしまうということです。「ものごとに長所も短所もあるのだから、あえて短所だけ取り出すことは、悲観主義者のやり方ではないでしょうか? 偏見ではないでしょうか?」そう思うのは、偏見を持っている俗世間の人間です。人間の生き方は、それとは違います。皆、自分の命に、この上ない価値があるという前提で生きているのです。 命に価値があると証明したわけではないし、調べたこともありません。ただの気持ちです。本能として、その気持ちがあるのです。「命には無上の価値がある」という錯覚がなければ、生きていられないのです。そう信じなければ、苦労を無視して生きることにがんばることができないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p48】
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10月21日読了時間: 1分
切迫感・恐怖感を感じさせる ⑵
切迫感・恐怖感を感じさせる ⑵ あなたはその場合、どういう態度を取りますか?」。そうお釈迦様が王に訊きます。「いや、そうなったらもうどうしようもないから、死ぬまでの僅かな時間に何か善いことをします。正しく生きるより他に、できることはありませんね」と王様は答えました。 王の答えに対して、お釈迦様はこのように語られます。「今すでに、人の命は四つの巨大な山で潰されつつあるのです。四つの山とは、生・老・病・死です。人が生まれた瞬間から、その生命は生・老・病・死に押し潰されているのです。人には時間を無駄に使う余裕はないのです。真理に従って、正しく生きるより他の選択はないのです」 このようにして、国王の贅沢にふけるだらしない生き方、国政のために罪を犯す生き方を戒めたのです。お釈迦様はあえて、国王の心に恐怖感を入れてあげたのです。王とは、常に暗殺に怯えている生きものです。死の恐れはあるのに、軍事力でそれをごまかしているのです。お釈迦様はコーサラ国王に、「あなたはもうすでに殺されかけているのですよ」と説かれたのです。 真理を発見するために、執着をなくすために、解
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10月20日読了時間: 2分
切迫感・恐怖感を感じさせる ⑴
切迫感・恐怖感を感じさせる ⑴ お釈迦様もわざと人間に切迫感・恐怖感を感じさせて、人々が必死になって努力しなくてはいけない状況に追い込むこともありました。エピソードがたくさんあります。その中から、一つを紹介しましょう。 ある日の昼時、コーサラ国王がお釈迦様を訪ねました。常識的には、釈尊が人に会う時間帯ではありませんでした。そこで、「なぜ、あなたは昼時に来たのですか?」とお釈迦様が訊きます。王は答えます。「我々はとても忙しいのです。時間がないのです。やっと今少々時間がとれたので、釈尊に礼をするために来ました」と。 お釈迦様は、いきなり喩え話を出します。「もし、あなたが裁判をしているときに、あなたが北の方に送った信頼できる諜報員が来て、『王様、北の方から大きな山が転がってきます。すべての家や建物や人間や動物や植物までも潰して潰して、一人の命も残さず、こちらの宮殿に向かってきています』と報告するとします。その報告が終わるやいなや、南の方に送った諜報員が来て、『王様、南の方から大きな山が転がってきます』と、同じ調子で報告します。次に、東の方の諜報員も、西
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10月19日読了時間: 2分
恐怖感もためになる
恐怖感もためになる 皆、一生懸命がんばっているのも、金儲けをしたり、家を建てたり、家族を大事にしたりするのも、どこかで不安感があるからです。どこかで恐怖感があるからです。不安感・恐怖感がないと、人間は退化します。堕落します。ですから一概に、恐怖感をなくしたい、不安感をなくしたい、と願ってはならないと思います。不安感・恐怖感を感じると、人々は「なんとかしなくてはいけない」という気持ちになります。切迫感を感じるのです。努力しなくてはいけない、という必然性を感じるのです。この緊張感が、とても大事です。それは怠けの反対です。成長することの起爆剤なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p47】
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10月18日読了時間: 1分
乗っていた船が壊れて沈没している
乗っていた船が壊れて沈没している 修行者の心が、次に「滅」という現象に定着します。「壊れてもまた生まれるから」という慰めも得られなくなるのです。すべて壊れて、壊れていくのです。うたかたのようです。それまでは執着することで、生きることをなんとか繋いでいたのです。その執着が、成り立たなくなったのです。どう安心すればよいのか、術が見つかりません。そこで激しい恐怖感に襲われます。もう、修行を始めたときの人間ではありません。人格が変わっているのです。 執着をして生きている人々の生き方は滑稽に見えますが、自分の人生も激しく揺らいでいるのです。それには理由があります。それは、心の向きです。まだ、心が俗世間の方に向いているためです。たとえ解脱を目指して修行を始めたとしても、解脱とは何か、分かっていたわけではありません。俗世間の生き方と比較して、解脱という何かを推測しただけです。そして、この時点で自分が乗っていた船が壊れて沈没しているのに、浮き輪さえも見つからない状態に陥ります。このような精神状態に達することも、人格向上です。ここを経て修行者は、徐々に世間の次元を
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10月17日読了時間: 1分
順を追って心は変わる 4:人格が変わる
順を追って心は変わる 4:人格が変わる 今までは有論(ものごとは「有る」という立場)で生きてきました。執着するのは当たり前だ、という世界でした。執着していたものが無くなると、その苦しみも感じていました。それが生滅智が現れてからは、ものごとに、自分に、執着するというスタンスが揺らいでしまうのです。ものが「有る」という錯覚のお陰で、金があれば安心だ、家族がいれば安心だ、などなどの無知から生まれた虚構の安心感で生きてきました。 しかし、その土台も、今、崩れていくのです。ものは「有る」のではないのです。生じて滅するのです。安心感が崩れたからといって、その代わりに何かに執着して、新たな安心感をつくることもできません。すべては生・滅なので、何もあてにならないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p46】
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10月16日読了時間: 1分
順を追って心は変わる 3:理解が深まる
順を追って心は変わる 3:理解が深まる 今まで、「ものは有る」という前提で生きてきました。「有る」はずのものが「無くなる」と、悩んだり苦しんだりもしました。お金が無くなると、親しい人々と死に別れになると、健康を害して病気になると、苦しんだり悩んだりもしました。あってはならないことだと、無意識的に思っていました。無知で、現実を無視して生きてきました。 ヴィパッサナー実践をしていくと、現象は「有る」のではなく、生と滅を本性としているのだと発見します(現れるものはすべて滅するものであると、ここで疑いなく完璧に納得に達することができれば、預流果の悟りに達したことになりますが、普通の人々の場合は、それだけの智慧で悟りは現れません)。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p45】
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10月15日読了時間: 1分
順を追って心は変わる 2:観察実践で常識を超える
順を追って心は変わる 2:観察実践で常識を超える ヴィパッサナー実践をする人も、膨らみ・縮み、痛み・かゆみなど、そのときそのときの「有る」感覚を確認していきます。この実践は思考・妄想・雑念を抑えるので、概念を頭で合成するはたらきも減っていきます。思考することなく、「有る」現象を観察していくと、新たな発見があります。「現象は、生まれては消えるのだ」ということです。今までの認識を覆っていた膜の一つが剥がれます。現象は「有」ではなく、「有であって無になる」ということを発見します。有が無になるので、現象は「有+無」ということではありません。生滅智とは、常識を一段階超えたところのことです。常識では、生滅を発見できません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p45】
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10月14日読了時間: 1分
すべて有論の範疇 (はんちゅう)
すべて有論の範疇 (はんちゅう) すべての生命の認識は、「有論 (うろん)」です。それが膨張すると、存在論にも、我論にもなります。それにとどまらず、実体論、有身見、絶対神論、梵我一如論、如来蔵論、大日如来(法身仏)などなども現れるのです。人は何を認識しても、何を考えても、す...
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10月13日読了時間: 1分
順を追って心は変わる 1:普通の認識(ものは存在する)
順を追って心は変わる 1:普通の認識(ものは存在する) 我々の普通の認識、要するに常識というものは、ものは存在する、ものが「有る」、という前提で起こるものです。音が有るから、聴こえる。花が有るから、見える。絶えず認識が起きているので、絶えずものごとが存在するという前提も強...
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10月12日読了時間: 1分
怖畏智が心に与えるインパクト
怖畏智が心に与えるインパクト 修行者が経験する壊滅智は、一般人には決して経験できるものではありません。常識を超える経験なのです。いかなる現象であっても、確実に、瞬間に、壊れていくことを観ています。修行しない一般の方々は、壊れることを妄想して、イメージをつくって、怖いと感じま...
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10月11日読了時間: 1分
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