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札幌仏教塾
世間は常住、 楽、我だと信じている
世間は常住、 楽、我だと信じている 世間は前提として存在が① 常住(nicca)、② 楽(sukha)、③ 我(attā)だと信じていますが、客観的にデータを調べる修行者は① 無常(anicca)、② 苦(dukkha)、③ 無我(anattā)こそが事実・真理だと発見するのです。 一言でいえば、修行者は現象のありのままの姿を発見するのです。それなら一つの言葉で表しても構いません。しかし世間は、現象に対して三つの側面から勘違いしています。その勘違いに合わせて、さまざまな煩悩も生まれます。修行者は、その三つの側面が、正しくないと発見するのです。しかし修行者が、無常・苦・無我という三つの側面すべてを観察する必要はないと思います。いずれか一つを明確に発見すれば、それで充分です。解脱に達する段階になると、かならずそうなります。今は、五番目の道非道智見清浄の智慧に達しようとするところです。ですから、一切の現象は無常であり苦であり無我であると、すべての側面で観察した方がよいのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2
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3月9日読了時間: 1分
我が存在する(我論attā)という世間の勘違い
我が存在する(我論attā)という世間の勘違い 人々は、永遠不滅の魂がある、自分という実体があると、固く信じています。「何もない」と言われたら怯えます。永遠に変わらない自分という実体が潜んでいると思っているので、無常なる存在に対して徹底的に執着します。魂があると結論づけるために必要な、証拠もデータも皆無です。しかし前提として信じています。仏道の修行者は客観的な観察によって、「一個一個の現象が泡のようなもので、それが弾けて次の現象が現れているのだ」と発見します。我が存在する(我論attā)、という世間の勘違いに対して、修行者は、事実は無我(anattā)であると発見するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p117】
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3月8日読了時間: 1分
常住nicca 論は完全に間違っていて真理は無常anicca である
常住nicca 論は完全に間違っていて真理は無常anicca である 修行者は、先入観なしに客観的に自分の身体と感覚を観察します。外の世界の現象も観察します。すべては現れては消える、ということを現実として発見します。俗世間が持っているnicca 論は完全に間違っていて、真理はanicca であると発見するのです。 人々は楽・幸福・愉しみを探し求めています。探すのは構いません。しかし、なぜ幸福を探し求めるのかという、単純な疑問を抱きません。何かを探しているならば、何かを求めているならば、それは「今・ここ」にないのです。「生きることの中に幸福・楽などはない」と言われたら、何の躊躇もなく「あるはずです」ということにします。生きることが楽(幸福sukha)であるということを前提として受け止めているのです。仏道の修行者はそれを客観的に調べてみます。そして、観察する一個一個の現象、またはすべての現象は「楽」ではありませんと、発見します。一個一個の現象がおっかないものであるならば、生きることは全体的にもおっかないものです。世間の持っているsukha...
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3月7日読了時間: 1分
現象を三つの角度から観る
現象を三つの角度から観る 無常・苦・無我とは、現象のありさまを三つの側面から観察することです。その三つの側面は、俗世間的な人々が達している結論を参考にしているのです。ものごとを精密に観察しようともしない人々は、感情的・主観的な立場から、突然、結論に達しています。人々の好み・期待を結論にしているのです。決して理性的・知識的な態度ではありません。 まず我々は、なんでもかんでも存在しているのだと思っています。ものごとを認識すると、それが「ある」という気持ちが起こるのです。その気持ちを拡大させて、私がいる、世界はある、神がいる、などなどの妄想概念にします。自分が永遠に生き続けたいという気持ちは強いです。「永遠なんかはこの世ではあり得ない」と言われると、あの世で永遠不滅になりたいと希望を変更します。人の認識は常住(nicca)論を前提にしているのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p116】
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3月6日読了時間: 1分
anattā asārakaṭṭhena ─実体でないという意味で無我
anattā asārakaṭṭhena ─実体でないという意味で無我 修行者は、現象が現れては消える流れを観察しています。一つ一つの現象は小さな泡のようで、それが弾けて次の小さな泡が現れるような感じになります。 現象の中に何か芯のようなもの、種のようなもの、要するに実体のようなものがあるならば、一時的な現象が弾けてもその実体が残るはずです。カバンが破れたら、その中身が落ちてよく分かるようになります。しかしカバンが空っぽなら、破れたら破れただけでそれ以上の結果はありません。 現象の流れの場合は、一個一個の現象の泡が弾けて、次の現象が現れます。どこにも「実体」と言えるものは見つかりません。特に人は、自分とは何かという問題に最大の興味を持っています。それに関する哲学もたくさん現れています。 ヴィパッサナー実践が進んだ修行者は、自分という実体は成り立たないこと、存在もしない一時的な現象に、仮に「自分」と名付けるだけであることを発見します。このように無我を観察することになります。「無我だ、無我だ」と念じるものではありません。 【アルボムッレ・スマ
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3月5日読了時間: 1分
瞬間の現象に面白いもの、落ち着けるものはない
瞬間の現象に面白いもの、落ち着けるものはない このやり方で、他の現象も観察してみましょう。結果は同じです。見る・聴く・嗅ぐなど五感の認識の流れであれ、感覚の流れであれ、心の変化の流れであれ、一個一個の瞬間の現象は面白いものではありません。仕方なく、次の現象にたちまち変わらなくてはいけないのです。落ち着けるところ、これでいいやと思えるところは、どこにもありません。たまにあったとしても、瞬時にそれも変わります。この気持ちは俗世間的な言葉でいうならば、恐れ(ヤバイという感じ)になります。 これが苦を観察することなのです。ただ「苦だ、苦だ」と念じることでもないのです。一切の現象が自性として持っている「苦というはたらき」を発見します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p115】
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3月5日読了時間: 1分
dukkhaṃ bhayaṭṭhena ─恐れがあるという意味で苦
dukkhaṃ bhayaṭṭhena ─恐れがあるという意味で苦 集中力を持って瞬間瞬間の現象を観察すると、その一個一個の現象は決して面白いものではありません。 瞬間瞬間の膨らみの流れを観てみると、面白い膨らみなど一つもないのです。一個の膨らみが起きたら、仕方なく次の膨らみに続きます。それがまた次の膨らみに続くのです。膨らみの流れが終わったら、停止する感覚が起こります。それはそれで面白い感覚ではありません。縮みの流れをスタートしなくてはいけないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p115】
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3月3日読了時間: 1分
瞬間瞬間の膨らみが壊れて次の膨らみが現れる
瞬間瞬間の膨らみが壊れて次の膨らみが現れる 「膨らみ」と観察するときも、瞬間の小さな膨らみの流れです。瞬間的に、無数の膨らみが流れで起こります。それほど集中力がなかった初心者は、「膨らみ」と確認します。経験者は、「膨らみの流れ」を観ます。このステージでは、膨らみの流れの中で瞬間瞬間の膨らみが壊れて、次の膨らみが現れることに注意してほしいのです。要するに、同時にいくつかの膨らみがあるわけではない。一つの膨らみが変わることなく長く続くわけでもない。自分の身体・感覚・心のいずれを観察してみても、この法則は同じであると観えるのです。 これは無常の観察の仕方です。ただ「無常だ、無常だ」と念じても、意味がないと思います。言葉を念じるのは簡単です。しかし、肝心な言葉が示すはたらきを発見しなくてはいけません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p114】
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3月2日読了時間: 1分
aniccaṃ khayaṭṭhena ─滅するという意味で無常
aniccaṃ khayaṭṭhena ─滅するという意味で無常 修行者が現象を観察するとき、気づくべき特色があります。 音の例で説明します。修行中、何かの音が耳に入ります。それを確認します。前の聴覚が消えてから、次の音が耳に触れて新たな聴覚になります。雑念なく、高いレベルの集中力があるならば、すべての現象はこのパターンで起こるのだと発見することができます。 痛みを観察するときでも、ただ一貫して痛いのではありません。瞬間の小さな痛みの流れです。一個の痛みが消えて壊れて、次の痛みが現れます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p114】
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3月1日読了時間: 1分
因縁により生じるものは、無常に決まっている
因縁により生じるものは、無常に決まっている 理論的に説明すると難しく感じるかもしれませんが、答えは簡単です。お釈迦様が達した一切の現象に対する結論は、無常・苦・無我という三相です。今、修行者には、現象の因縁関係が観えています。因縁により生じるものは、無常に決まっているのです。自分の力で無常に気づけないならば、あえて「現象は無常である」と観るように、少々注意すればよいのです。無常・苦・無我はただの言葉です。どんなはたらきについてこのラベルの言葉を貼ったのか、知る必要があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p114】
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2月28日読了時間: 1分
sammasana-ñāṇa 思惟智は結論を出す気持ちを持って観察する
sammasana-ñāṇa 思惟智は結論を出す気持ちを持って観察する 簡単に説明したからといって、修行という仕事も簡単であろうと思わない方がよいです。修行者はさらに集中して、徹底的に現象のありさまを観察しなくてはいけません。『清浄道論』では、たくさんの観察の仕方を紹介しています。一人の修行者には、すべての観察方法を実践することは無理だと思います。『アビダンマッタサンガハ』テキストでは、分かりやすい方法を紹介しています。ここでsammasana-ñāṇa という新しい用語を紹介するのです。「観察する」という意味ですが、さらに観察する、詳しく観察する、詳細に観察する、繰り返し観察する、というようなニュアンスの「観察」です。この用語の日本訳は、思惟智です。 現象を詳細に分析して観察するのは、修行者がやってきたことです。そのときは、先入観などが入らないように、客観的に何も判断せず観察する方法を推薦しました。今度は、結論を出す気持ちを持って観察するのです。お釈迦様が最終的な真理を発見したので、弟子たる修行者が、お釈迦様の達した結論と違う結論に達するは
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2月27日読了時間: 2分
現象の世界は完全に駄目だとという微妙な心構え
現象の世界は完全に駄目だとという微妙な心構え 仏道は智慧を開発する世界なので、なんとかしたいと思っただけでなんとかなるわけではありません。「本気で解脱に達したい。それしか解決策はありません」という気持ちにならなくてはいけないのです。解脱を曖昧さなく揺るぎなく目指すためには、現象の世界には微塵もよいところがないのだと、明確に発見する必要があります。現象の世界は完全に駄目だと実証できたならば、その心は自然に、確実に、解脱へと赴きます。四番目の度疑清浄から五番目の道非道智見清浄に昇格するために必要なのは、この微妙な心構えです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p113】
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2月26日読了時間: 1分
「これはなんとかしなくては」という気持ち
「これはなんとかしなくては」という気持ち 度疑清浄の説明をするとき、『清浄道論』で使っている医者の喩えがあります。医者が心配する心で患者を観察します。当然、病いとその原因を発見したいでしょう。しかし医者の気持ちは、それだけでしょうか? (病いの)因縁関係を知るだけでなく、なんとかしなくてはいけない、という気持ちもあるのです。それは当然、病いの因縁をなくすことです。 度疑清浄の智慧に達した修行者も、さらに観察を続けます。しかし、このとき「これはなんとかしなくては」という気持ちが必要になることでしょう。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p113】
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2月25日読了時間: 1分
少々観察の仕方を変えて、次のステージ・道非道智見清浄に進む
少々観察の仕方を変えて、次のステージ・道非道智見清浄に進む ヴィパッサナー実践が着々と成長して、四番目の度疑清浄の智慧に達したとしましょう。その時点で、すべての現象は因縁により生じる一時的なものであると発見しています。お釈迦様が教えた無常・苦・無我についても、気づいているはずです。修行する人は、その都度その都度、現れる現象を確認します。度疑清浄の智慧に達した人は、現象だけではなく、現象の因縁関係も分かっています。いくら観察作業を続けても、これがあったからこれが起きた、という因縁の公式に当てはめてしまいます。無理をしているのではありません。自然に因縁関係が観えてくるのです。そのまま因縁関係も含めて観察しても、それ以上の成長が観えなくなる可能性があります。「これ以上どうするのか? いくら観察してもすべて因縁関係で終わっているのではないのか?」という気分になることもあり得るのです。実際、これ以上どうするのか、という気分に陥る修行者たちがたくさんいます。そこで少々、観察の仕方を変えて、次のステージ・五番目の道非道智見清浄に進むようにするのです。...
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2月24日読了時間: 1分
仏道に決定する段階
仏道に決定する段階 五番目の道非道智見清浄は、理解しがたい言葉だと感じるかもしれません。言葉だけではありません。その中身もとても説明し切れないほど難しいのです。一般知識で理解できるようになんとか解説してみます。修行者の心が解脱を目指すことに最終決断するステージです。これも智慧の一つです。「解脱を決断する段階」といっても、そもそもヴィパッサナー実践を始めたときから解脱を目指していたのではないか、と思われるでしょう。俗世間的な知識で言えばそのとおりです。しかし智慧がありませんでした。仏教を論理的に理解して、納得して修行を始めただけです。もしかすると、未知なる世界に対する興味から始めた可能性もあります。そうであるならば、執着を捨てるのではなく、何かに執着するのを目的にしていたことになります。仏教は始めから、人の知識をそれほど信頼しません。知識には揺らぎがあります。信頼できるのは、真理を発見するときに現れる智慧です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p112】
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2月23日読了時間: 1分
小預流者
小預流者 度疑清浄に達した修行者のことをcūḷa-sotāpanna 小預流者とも言います。『アビダンマッタサンガハ』テキストの註釈294 ページに出ています。 因縁法則が分かったら、世の中に蔓延している宗教・信仰・哲学などについて、未練は感じなくなります。自分は正解を知っているのです。突然、仏教に飽きて、もっと派手で楽しい信仰にでも行こうかな、という気持ちは一切起こりません。その人は、眼耳鼻舌身意に色声香味触法という対象が触れると、貪瞋痴の煩悩の流れが生まれてしまうことが気になります。因縁も知っているのに、どうして自我・自分という錯覚が未だにうろついているのか、ということも気になります。さらに集中して実践を進めて、煩悩をつくりだす自我の錯覚をなくしたい、という気持ちは揺るぎません。預流果に達するのはもう少々あとの話ですが、今も逆戻り不可能な状態になっています。預流果に達したら、逆戻り不可能な状態が確定します。
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2月22日読了時間: 1分
疑が晴れる
疑が晴れる 線形的でもあり並列で多次元的でもある因縁法則を発見すると、世に存在するすべての問題や疑問に対して答えが見つかります。皆どこで勘違いして、さまざまな哲学・宗教をつくったのか、分かるのです。因縁に依らざる現象は何もないと、これが最終的な真理であると、発見します。この智慧は度疑清浄と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p110】
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2月21日読了時間: 1分
直接原因と直接の結果のみを確認する
直接原因と直接の結果のみを確認する 因縁法則は、遠い原因ばかり探す愚か者には発見できません。「最初の原因は何なのか? 最初に現れたのは宇宙ですか? 生命ですか? 最終的にはどうなるのか?」などなどを考える人々は、無知のままで留まります。疑が濃くなるばかりで、薄くなることは決してありません。悩みは増えるだけで、減りません。ヴィパッサナー実践者は、直接原因と直接の結果のみを確認するのです。「今、痛みがある。嫌な気持ちが生じる」という確認で充分です。それから、自分が確認した現象とその原因は、確かなものです。曖昧ではありません。推測でもありません。確実なのです。ですから、因縁法則を発見するために、遠い原因ではなく、現象の直接原因のみを観察します。 ラベリングするという単純な作業を実行する修行者は、人間にとって想像を超えた難しい因縁法則を発見できるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p110】
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2月20日読了時間: 1分
感覚が生じると次に渇愛
感覚が生じると次に渇愛 ここでは分かりやすくするために、痛みという例を出しただけです。修行が進んでいる人は、この時点で「感覚」とラベリングしています。「感覚」という現象が起きたら、次に、欲も怒りも期待も希望も起こり得る。Upekkhā も起こり得る。遠離も起こり得る。感覚と一緒にどのような因縁が流れているのか、ということです。ここで完全に語るお釈迦様が、「vedanā paccayā taṇhā 感覚が起きたら渇愛が生じる」と説かれるのです。渇愛は三種類に分類されているので、ラベルは一項目だけですが、中身は可能性として三つ入っています。因縁法則を線形的に説かれているのです。ですから感覚が生じると、次に渇愛です。決まっています。しかし多次元性を発見しない限り、因縁法則を理解したことになりません。 では、感覚の次に遠離が現れたとしましょう。感覚の次は渇愛なので、遠離も渇愛の一つでしょうか、という問題が起きます。渇愛が生じるために無明が必要です。修行して智慧が現れた人に限り、遠離が生じます。ですから問題はありません。「これがあるとき、あれがある」と
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2月19日読了時間: 1分
多次元にしてみれば、A の次はB
多次元にしてみれば、A の次はB 痛みが起きたら、次に「嫌」という気持ちが生じる。痛みが起きたら、心はupekkhā になることもある。痛みが起きたら、生命は痛みによって成り立っているのだと分かっているならば、遠離が起こることもある。解脱に達してしまうこともあり得る。この状況を考えると、A が起きたらB が起こるのではなく、A が起きたらB もC もD もE も起こるでしょう、何の公式もないでしょうと、勘違いするかもしれません。しかし違います。A が起きたら、B が起こるのです。ただ因縁関係は多次元的、というだけの話です。線形的にのみ観るならば、A の次にB もC もD もE も何でもあり得る。しかし多次元にしてみれば、A の次にB です。 この公式を正しいと確かめる方法もあります。それは、「Imasmiṃ asati idaṃ na hoti, imassa nirodhā idaṃ nirujjhati. これがないときは、あれもない。これが滅するときは、あれも滅する」という逆調べです。具体的に言いましょう。痛みが生じたら、「嫌」という気
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2月18日読了時間: 1分
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