top of page
札幌仏教塾
magga-citta 道心の仕事
magga-citta 道心の仕事 道心には、四聖諦をいっぺんに理解する能力があります。しかし四聖諦は一般人に理解できるように語られたものなので、中身は同一ではありません。 さまざまなことを一つの心で理解する、ということはあり得ない話です。これを説明するために、アビダンマ・テキストは苦労しています。経典に沿って、四聖諦に対する四つのアプローチに合わせているのです。 ① 苦聖諦は理解するものです。② 苦集聖諦はなくすものです。③ 苦滅聖諦は体験するものです。④ 苦滅道聖諦は実践するものです。この四つに合わせてみたとしても、一つの心にすべて起こるのだと言うと、相当な無理が出てきます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p160】
sapporobukkyoujuku
6月13日読了時間: 1分
道心も果心も出世間心
道心も果心も出世間心 玄関を開けたら家の中に入っているのですが、本格的に入るためには、たたきの上で汚れを落とさなくてはいけません。吹雪の中で歩くときに必要だったものも脱がなくてはいけません。 聖者の境地(家)に入ったのですから、道心も果心も出世間心なのです。しかし道心には、汚れ(煩悩)を落とすという、やるべき仕事があります。最初の悟りに達する修行者は、有身見、疑、戒禁取という三つの汚れを落とすのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p159】
sapporobukkyoujuku
6月12日読了時間: 1分
gotrabhū-citta 種姓心はmagga-citta 道心
gotrabhū-citta 種姓心はmagga-citta 道心 解脱に達するという出来事が起こる瞬間の心路があります。まずgotrabhū 種姓という心が生まれます。帽子、オーバー、コート、長靴などを身に着けた人が、吹雪の道を通って家の玄関に入ったとしましょう。瞬時に温かい家の中に入れます。これがgotrabhū-citta 種姓心です。 ドアを開けて、玄関のたたきに入ります。それはmagga-citta 道心なのです。たたきの上でおこなわなくてはいけない仕事があります。帽子、オーバー、コート、長靴などを脱ぐのです。身体についた汚れをそこで落とすのです。次に足を一歩上げれば、家の中です。家に入る瞬間はphala-citta 果心です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p159】
sapporobukkyoujuku
6月11日読了時間: 1分
アビダンマは心の流れのセット(心路)を説明する
アビダンマは心の流れのセット(心路)を説明する アビダンマは解脱に達するときの最後の心の流れ(心路)を説明しています。心とは瞬間に現れて瞬間に消えます。心の寿命は一刹那だと説明されています。アビダンマの刹那思考は一般的に理解できるものではありません。ですから、一つの認識が成立するために流れる心のセットを心路と名付けてあります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p159】
sapporobukkyoujuku
6月10日読了時間: 1分
magga-citta の次にかならずphala-citta が生まれる
magga-citta の次にかならずphala-citta が生まれる ヴィパッサナー実践の最後の段階に入った修行者の心の流れに、gotrabhū-citta 種姓心が現れます。Gotra とは日本語で◯◯ 家というファミリーネームです。修行で徹底的に鍛えられた心が、聖者として生まれようとするときの心であると理解した方が分かりやすいです。人間が生まれることを想像してみましょう。羊水が破れて、陣痛が引き起こす圧力によって赤ちゃんが生まれる準備をします。それをgotrabhū-citta 種姓心に喩えましょう。それから、赤ちゃんが産道に入ります。それを修行者にmagga-citta 道心が生じた状態に喩えましょう。産道から外に出た瞬間から、赤ちゃんが生まれたことになるのです。Magga-citta の次、修行者にphala-citta 果心が生まれます。その瞬間から、解脱者になるのです。解脱者として生まれる道に入ったときの心がmagga-citta です。赤ちゃんの頭が産道から見えるようになると、すぐ生まれます。時間はかかりません。修行者にmag
sapporobukkyoujuku
6月9日読了時間: 1分
道心(magga-citta)と果心(phala-citta)の違い
道心(magga-citta)と果心(phala-citta)の違い 以上、悟りの過程と心の上達について詳しく説明しました。本来はここで基本アビダンマは終了するべきです。アビダンマとは、一切の現象を極限まで微細に分析して語る方法です。一つの現象である心は、八十九か百二十一種類に分けて説明されています。八十九のグループで考えると出世間心は八種類です。その八種類は、預流道心・預流果心、一来道心・一来果心、不還道心・不還果心、阿羅漢道心・阿羅漢果心です。ここで悟りの心を道心・果心という二つに分けました。必要な解説は『ブッダの実践心理学』第二巻の四章にあります。 道心・果心は出世間心というので、世間の次元を破ったことを意味します。色界・無色界のサマーディも世間の次元に入ります。普通の心(凡夫の心)がどのように次元を破って出世間(解脱)の境地に達するのか、説明する必要があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p158】
sapporobukkyoujuku
6月8日読了時間: 1分
原始脳の残りの機能も停止させる
原始脳の残りの機能も停止させる 預流果の悟りに達した修行者は、さらに修行を続けて、原始脳の残りの機能も停止させます。機能を停止させるといっても、脳が死ぬわけではありません。ただ感情を引き起こさないだけです。それによってこの上のない安らぎを感じるので、脳細胞は元気にはたらきます。解脱に達した人の脳は決して衰えることがないのです。 この説明は、私が個人的な好みで、解脱のプロセスと脳の機能を繋げておこなってみた説明にすぎません。まったくピント外れのものになる可能性もあります。なんとなく理解していただければ充分です。実践する修行者にとっては、このような説明は余計なものです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p158】
sapporobukkyoujuku
6月7日読了時間: 1分
原始脳もそう簡単に負けを認める気はありません
原始脳もそう簡単に負けを認める気はありません このように説明すると、一回の修行で完全なる解脱に達することが可能であるように見えます。しかし原始脳もそう簡単に負けを認める気はありません。ですから完全なる悟りは預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という四つのステージで完成するのです。最初の悟りで、罪を犯すまで激しくなる貪瞋痴の感情の力を失います。自分という魂があるという錯覚もなくなります。しかし自分という実感は残っています。六根に入る対象に対して、好きなもの、嫌いなもの、という区別もあります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
sapporobukkyoujuku
6月6日読了時間: 1分
七番目の智見清浄で大脳が命の支配権を得る
七番目の智見清浄で大脳が命の支配権を得る 原始脳に寝てもらう経験は、一般常識レベルでは起こり得ません。ですから、智慧のランクは一般常識で理解するのは難しいと思います。無執着の完全な涅槃という経験は、七番目の智見清浄の次に起こることです。七番目の智見清浄とは、大脳に開発できる究極のレベルです。そこで大脳が命の支配権を得るのです。貪瞋痴の衝動で生きて苦難に陥ることは、二度となくなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
sapporobukkyoujuku
6月5日読了時間: 1分
原始脳が寝てしまって、大脳だけが仕事をする
原始脳が寝てしまって、大脳だけが仕事をする 次に、心清浄に入ります。瞑想してサマーディをつくるか、サマーディに近い状態をつくるかです。サマーディに達すると、五蓋が睡眠状態になるのだと説明されています。五蓋の中身も貪瞋痴と同じです。脳で説明するならば、原始脳が寝てしまって、大脳だけが仕事をすることになった状態です。心に感情が湧いてきません。ですから、妄想も現れません。それから気づきの修行を続けると、三番目の見清浄から七番目の智見清浄まで成長していくのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
sapporobukkyoujuku
6月4日読了時間: 1分
原始脳の力を抑えて大脳の力で生きてみる
原始脳の力を抑えて大脳の力で生きてみる 七つの清浄の一と二以外は、一般的な常識で理解するのは難しいと思います。脳の開発という現代的な言葉を使って説明するなら、もしかすると次のような解説になるだろうと思います。普通の人間の大脳は原始脳の指令によって活動します。原始脳とは理解能力がない臓器です。存在欲、怯え・恐怖、怒りなどの感情が現れる場所です。仏教的に言えば、貪瞋痴が活動する場所です。 戒清浄に挑戦するとは、原始脳の力を抑えて大脳の力で生きてみることです。戒律を守ることが正しいと自分で判断して、意図的に戒律を守らなければいけません。これは大脳の仕事です。戒律を完全に守ることに成功したということは、貪瞋痴の衝動を抑えたという意味です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
sapporobukkyoujuku
6月3日読了時間: 1分
七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ乗り物(智慧)
七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ乗り物(智慧) 次の対話は、このようになります。サーリプッタ尊者「戒清浄は無執着の完全な涅槃でしょうか?」、プンナ尊者「いいえ、違います」という流れで、プンナ尊者は「七番目の智見清浄も無執着の完全な涅槃ではありません」と答えています。これ以上、清浄の位はないので、サーリプッタ尊者は説明するようにと促します。 プンナ尊者が、ここで七つの車の喩えを出します。ある目的地にたどり着きたいと思った王様が、七台の車を用意してもらいます。一番目の車に乗って行けるところまで進んだら、そちらに二番目の車が用意されています。それに乗って、また行けるところまで進んで、三番目の車に乗り換えます。それを繰り返し、七番目の車に乗り換えて、目的地に達するのです。これは見事な喩えです。智慧は解脱ではないのです。七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ(成長させる)乗り物です。ここで乗り物というのは、智慧のことです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】
sapporobukkyoujuku
6月2日読了時間: 1分
清浄を目指して修行しているのではない
清浄を目指して修行しているのではない 七つの清浄について、智慧の第一人者であるサーリプッタ尊者とプンナ・マンターニプッタ尊者の対話が中部経典二四『Rathavinīta-sutta 伝車経』に記録されています。サーリプッタ尊者はこのように質問します。「友よ、あなたは戒清浄を目指して如来のもとで修行しているのですか?」プンナ尊者は答えます。「いいえ、違います」。それからサーリプッタ尊者は、心清浄、見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄、智見清浄についても同じ質問をします。プンナ尊者は、「いいえ、違います」と答えます。「ではあなたは、何を目指して修行するのでしょうか?」と聞かれ、「anupādāparinibbānatthaṃ 無執着の完全な涅槃を目指して修行するのです」と、答えるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】
sapporobukkyoujuku
6月1日読了時間: 1分
智慧と悟りに違いがありますか?
智慧と悟りに違いがありますか? 一般論的にいえば違います。智慧は解脱ではありません。智慧が現れた人は、その結果として解脱に達するのです。今までの説明で、智慧は段階的に現れてくるものだと理解できたと思います。しかし「七つの清浄」と名付けられていて、七つの智慧の段階だとは書かれていません。智慧が現れるぶん、心が浄化されます。必要なのはこの浄化なのです。最終的に七番目のñāṇadassana-visuddhi 智見清浄という地位に達して解脱を経験します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】
sapporobukkyoujuku
5月31日読了時間: 1分
Paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智
Paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智 ヴィパッサナーの修行者は、悟りに達した瞬間が終わって普通の認識の心路が起きると、そのほんの瞬間あとに、心が何を経験したのか、観察してみます。Paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智と言います。それで煩悩が根絶されたことを発見します。解脱を経験したことも発見します。修行者の個性によって変わると思いますが、基本的にはなくなった煩悩が何なのか、と観察します。それから、まだ残っている煩悩は何なのかと観察をするのです。サマーディ瞑想のセクションでは、サマーディに達してからそのサマーディを復習するべきであるというセクションがありました。五自在という、五種類の復習をするのです。ヴィパッサナーの実践者も、五自在の復習をした方が次のステージの解脱に挑戦しやすくなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p155】
sapporobukkyoujuku
5月30日読了時間: 1分
初心者の場合は、有身見、疑、戒禁取が根絶され預流果に達する
初心者の場合は、有身見、疑、戒禁取が根絶され預流果に達する 聖者として産声を上げて生まれる瞬間は、magga-citta 道心と言います。その瞬間で、煩悩が消えます。初心者の場合は、有身見、疑、戒禁取が根絶されるのです。次の瞬間の心は、初めて涅槃を対象にします。初心者の場合は、預流果に達したことになります。その心はphala-citta 果心と言います。果心はいくつか繋がって起きます。それから有分心に入って、心路は終了します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p155】
sapporobukkyoujuku
5月29日読了時間: 1分
解脱に達してしまう時間的な隙間はない
解脱に達してしまう時間的な隙間はない 一般的に言えば、六番目の行道智見清浄に達した修行者は、たちまち解脱に達してしまうのです。時間的な隙間はありません。実践に即して説明するならば、修行者の心は何かの現象の無常・苦・無我という三相の一つに引っかかります。引っかかるとは、三相の一つを対象にして心が生まれた、ということです。(次にanuloma ñāṇa が生まれます。次にgotrabhū ñāṇaが生まれます。) 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p155】
sapporobukkyoujuku
5月28日読了時間: 1分
parikamma 遍作、upacāra 近行、anuloma 随順、gotrabhū 種姓という順番
parikamma 遍作、upacāra 近行、anuloma 随順、gotrabhū 種姓という順番 禅定の場合はparikamma 遍作、upacāra 近行、appanā 安止、という順番になります。安止とはサマーディのことです。ヴィパッサナーの場合は、parikamma 遍作、upacāra 近行、anuloma 随順、gotrabhū 種姓、という順番を経て、解脱に達します。 Parikamma遍作とは修行することです。しかしアビダンマ心理学では、サマーディか解脱に達するほんの僅かな瞬間の前のところまで、修行の範疇に入れます。次の心はサマーディか解脱に近寄った状態なので、upacāra 近行と言います。 サマーディ瞑想では、次の瞬間でサマーディに達します。ヴィパッサナー瞑想の場合は、十種類の智慧の九番目・⑨ anuloma ñāṇa 随順智という心が生まれます。解脱の玄関にたどり着いた、という意味でしょう。次の瞬間に生まれる心は、解脱に達する修行者にのみ起こる、瞬間の心です。サマーディ瞑想では生まれません。その心に ⑩gotrab
sapporobukkyoujuku
5月27日読了時間: 1分
解脱に達するとき、心の流れ
解脱に達するとき、心の流れ 解脱に達するとき、心の流れがどのように起こるのか、という説明はmagga vīthi 道路と名付けています。道路の道は仏道のことです。路は心の流れです。ヴィパッサナー実践もここで一つの瞑想として扱います。サマーディ瞑想では結果として禅定に達します。ヴィパッサナー瞑想の結果として、解脱に達します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p154】
sapporobukkyoujuku
5月26日読了時間: 1分
バーヒヤBāhiya 尊者
バーヒヤBāhiya 尊者 仏教史上、一番短い時間で最終解脱に達した聖者はバーヒヤBāhiya 尊者でした。智慧第一のサーリプッタ尊者も、最終解脱に達するまでには時間がかかりました。仏伝によると、お釈迦様も一晩かかりました。 七番目の智見清浄というのは、悟り・解脱に達する瞬間のことです。ハシゴの最後の横木を踏んで、安全な境地に入るのです。これも言葉で説明することは不可能です。ただアビダンマ的には、心路の説明で終了するより他の方法はありません。心路とは、何かを認識するとき、心の流れがどのように起こるのか、という説明です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p154】
sapporobukkyoujuku
5月25日読了時間: 1分
bottom of page