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札幌仏教塾
現象が自然にnāma とrūpa に観えるか
現象が自然にnāma とrūpa に観えるか 見清浄という智慧は、現象をnāma とrūpa に区別して観ることのできる能力のことです。修行者にとって、現象が自然にnāma とrūpa に観えるようになっているなら、見清浄に達しています。このポイントは自己チェックになります。仏教は「自ら確かめる教えである」と釈尊が説かれます。それは、智慧が現れたか否かは自分でチェックしなくてはいけないからです。この場合の自己チェックとは、すべての現象をnāma とrūpa という二つに区別して観られる能力がついたか否か、ということです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】
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1月18日読了時間: 1分
人の生き方を正そうとする自我はない
人の生き方を正そうとする自我はない 人は、自分の感情に他人にも乗ってほしがるものです。共感してほしがります。しかし、見清浄に達している人には、周りの感情に共感する気持ちが起きません。道徳的な生き方には共感しますが、感情的な生き方に共感する気持ちはなく、冷静にいます。人の生き方を正してやらなくてはいけない、というような自我もありません。このような性格変化は、修行する本人だけではなく、周りにいる親しい人々にもよく分かります。しかし性格が変わったことだけでは、充分な判断材料になりません。ヴィパッサナー実践で智慧の開発が起きなくてはいけません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】
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1月17日読了時間: 1分
今まであった先入観は自動的になくなる
今まであった先入観は自動的になくなる Nāma とrūpa を発見すれば、「自分がいる」という今まであった先入観・見が、自動的になくなります。当然これは、見の清浄です。修行者のものの見方は、自分の発見によって変わるのです。「私はいるのではない(実体として存在するものではない)。Nāma とrūpa の流れなのです。その流れに世間の言葉として『私』と言うだけです。私がいなければ、他人もいるはずはない。他人というのは、同じnāma とrūpa の流れです」 このように、ものごとがnāma とrūpa の流れとして見えるようになったならば、見清浄に達した、ということです。 また、いろいろ性格的な変化も現れます。自我・自分という気持ちがnāma とrūpa のはたらきに変わったので、感情の揺らぎはほぼなくなったようになります。道徳は自然に守れます。破りたい気持ちはなくなったような気がします。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】
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1月16日読了時間: 1分
「自分」はあると思うのは見diṭṭhi
「自分」はあると思うのは見diṭṭhi もし人に「自分・自我」という何かが存在するならば、人の人生は曖昧で、中途半端で、いい加減で、感情の波に揺らいで、読み取れない状態にあることが普通になります。どうすることもできません。しかし「自分」は存在するのかしないのかを調べたことはないのです。あると思っています。それは仏教用語で「見解・見diṭṭhi」と言います。見という字を使っていますが、その実は邪見です。ヴィパッサナー実践では、ありのままに現象を観察することで、この問題を解決します。自分・自我を探すという固定概念を使いません。ただ、その都度、起こる現象をそのまま観察していきます。やがて「自分」という存在を構成しているnāma とrūpa という二種類のエネルギーの流れを発見するに至ります。それが普遍的な真理であると、さらに発見するのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】
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1月15日読了時間: 1分
自我に要求される
自我に要求される 行動について、もう少々、説明が必要です。人は道徳を守ったり守らなかったりします。優しい言葉を語ったり、乱暴な言葉を使ったりもします。他人に親切な態度をとったり、不親切になったり、他を攻撃したり、他を無視したりもするのです。人には、一貫して正しく管理された生き方はありません。このように激しく揺れ動く生き方をするのも、自我のせいです。その都度その都度、自我に要求されるような生き方をするのです。嘘をついてはいけないと分かっているのに、自我が「嘘をついて自分を守れ」と命令すれば嘘をつきます。道徳を守ろうとがんばる人も、この世に結構います。しかしその人々は、自分の自我と対立しなくてはいけません。自我を抑えられるならば、道徳も守られます。自我を抑えられなくなった瞬間で、道徳は破れてしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】
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1月14日読了時間: 1分
見清浄に達したか自己チェック
見清浄に達したか自己チェック どんな人でも、自我・自分という前提に基づいて生きています。すべての世界を、自分を中心にして認識します。他の生命との関係も、自分を中心にして結びます。自分の生き方・行動にしても、「自分」が中心です。自分は存在の中央管理局です。自分とは、いとも簡単に自我に化けるものです。皆の自分が、すでに自我に化けているのです。結果として、「中央管理局」が中央トラブル局になっています。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p94】
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1月13日読了時間: 1分
普遍的な現象であると発見する
普遍的な現象であると発見する 「確認する現象の普遍性を発見するように」というのは、『念処経』のアドヴァイスです。そのやり方とは、① ajjhatta(内)、② bahiddhā(外)、③ ajjhattabahiddhā(内と外)という三ステップで観察するというものです。 具体的な例で説明します。硬さ・重さという本質を持つ地色を発見したとしましょう。自分の身体が地色で構成されていることに集中します。身体の一部が硬いと発見したかもしれませんが、よく集中すると、硬さは身体の至るところにあるのだと分かります。次に、座っている座布団や着ている服などにも同じ硬さというはたらきがあることを発見します。周りにいる人々の身体も、同じ構成であると発見します。それから、すべての物質たる現象には、硬さという色があることを認識するのです。それで地色を客観的な真理として見ていることになります。自分だけの主観的な感想ではなく、普遍的な現象であると発見するのです(現象に対する無常・苦・無我の発見は、この普遍性に達してから起こります)。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践
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1月12日読了時間: 1分
心の中にも心所の変化が起きている
心の中にも心所の変化が起きている 例えば修行中、身体が岩のように重くなったり硬くなったりすれば、びっくりしますね。しかし、びっくりしてはいけません。冷静に、硬さ・重さに集中して実況するのです。これは地色の観察です。もしかすると修行者はこのように気づいてしまう可能性があります。言葉にしてみるとこんな感じです。「いやいや、身体が岩になるはずはない。重くなるはずもない。心が硬さ・重さを認識しているのです。その認識と同時に心の中にも心所の変化が起きているのです」。このように気づいたならば、nāma を発見していることになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p93】
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1月11日読了時間: 1分
集中力が物質からnāma に自然に引っ越しする
集中力が物質からnāma に自然に引っ越しする Nāma が一向に分からない、という感じがあっても、構いません。そのときは、よく分かる色のみを観察し続けるようにと、『清浄道論』はアドヴァイスします。そのうち、nāma も勝手に出てきます。勝手に現れてきたら、nāma に集中して確認を続けます。 これは、それほど難しい作業ではありません。修行中、確認する妄想・雑念・怒り・欲・混乱・眠気・怠けなども、結局はnāma なのです。実況中継する修行そのものも、nāma のはたらきです。見る、聴く、嗅ぐなどの行為の場合も、nāma がその認識作用を起こしています。Nāma の発見は決して難しくはありません。ただ自分の集中力が物質からnāma に自然に引っ越しするまで、待つ必要があります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p92】
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1月10日読了時間: 1分
rūpa とは自分の肉体
rūpa とは自分の肉体 Rūpa とは自分の肉体のことです。肉体は五蘊の色蘊として観察することも可能です。地水火風という四大色を観察してもよいです。修行者に、身体が硬い、重い、という感覚が生まれます。そのとき、その硬さ、重さを観察します。これは「地」という色です。地に集中してみると、前に説明した七つの側面からいくつかの側面を当てはめることができるようになります。時には身体が全体的に液状になったような気がします。または身体の中に流れているさまざまな液体が気になってしまいます。これは「水」という色です。身体という物体が、揺らいだり、動いたりする感覚に気づいたら、「風」という色になります。身体の熱に集中すると、「火」という色です。決まりはなく、自分の心が勝手に発見する現象に気づくのです。無理にnāma を発見しようとはしません。そうすると捏造機能がはたらき出して、正しい修行経験にならないからです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p92】
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1月9日読了時間: 1分
rūpa とnāma の順番
rūpa とnāma の順番 修行者は皆、nāma とrūpa を観察します。実際はrūpa とnāma の順番になります。二十八のrūpa、心と五十二の心所(nāma)を観察することになりますが、それはアビダンマ・テキストどおりに起こるものではありません。修行者は何かのrūpa を観察するのです。Nāma が分かってくると、その都度現れてくるnāma を観察します。修行者が皆、すべてのrūpa とすべてのnāma を観察するのではありません。それは現実的に成り立ちません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p92】
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1月8日読了時間: 1分
指導者の説明をあおぐ
指導者の説明をあおぐ まずは自分で観察して、自分で確認して、現象のありさまを発見する。瞑想実践をしないときに、自分自身の経験を経典に照らしてみるか、指導者に説明してみるか、どちらかをするのです。これは単純に落ち着いてもらうためだけです。さまざまな経験はあるけれどもそれが何か分からない、という気持ちでいる場合は、精神的に落ち着きません。そこで指導者が「あなたはこれこれのことを発見しています」と言えば、落ち着くことができます。詳しい説明を聴いてもらわなくても、落ち着いて修行を続けるならば、解脱に達することは可能です。ですが、心は常に認識データを捏造します。成長してないのに「成長したのだ」、悟りに達してないのに「悟っているのだ」と捏造してしまうことも大いにあり得るので、指導者の説明をあおぐのが普通なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p91】
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1月7日読了時間: 1分
見清浄は何を「見る」のか
見清浄は何を「見る」のか ヴィパッサナー実践とは、現象を観察し続ける作業です。現象を観察する場合は、一つの側面だけにすると偏見的な観察になります。真理を発見したことにはなりません。ですから現象を観察する場合は、七つの側面で観察するべきだと指導されています。ここまでも、この七つの側面について詳しく説明しました。一つの現象を偏見・主観・先入観などのバイアスに染まることなく、客観的にありのままに観察しなくてはいけないので、この七つの側面を使用するのです。ありのままに観られるようになるのも大変です。 七つの側面を駆使して何を観察するのでしょうか? Nāma とrūpa を観察するのです。Nāma とは心の流れで、rūpa とは物質の流れです。アビダンマを学ぶ人々に、nāma とは何か、rūpa とは何かと、今さら説明する必要はありません。『ブッダの実践心理学』シリーズの第一巻はrūpa の説明に費やしています。第二巻から第四巻までかけてnāma の説明をしています。 しかし瞑想実践する修行者は、アビダンマ・テキストに見られるようなややこしい議論をするので
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1月6日読了時間: 2分
さらに三つの見方:③nissaraṇa 離れること
さらに三つの見方:③nissaraṇa 離れること さらにもう一つ、nissaraṇa 離れることも、確認すべきポイントに数えます。どうすればこの状態から脱出できるか、ということ。これも大事なのです。この「離れる」を加えると、確認すべきポイントは全部で七つになります。 ですから一つの現象を確認するときはlakkhaṇa 特色・自性、rasa 作用・機能、paccupaṭṭhāna現状、padaṭṭhāna 直接原因、assāda 長所・楽味、ādīnava 短所・禍患、nissaraṇa 離れること・出離という七つを確認した方がいいのです。現象の定義は、この七つでおこないます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p90】
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1月5日読了時間: 1分
さらに三つの見方:①長所assāda ②短所ādīnava
さらに三つの見方:①長所assāda ②短所ādīnava この四つに、もう二つの見方を付け加える場合もあります。長所assāda と短所ādīnava です。すると、六つの見方になります。例えば怒りなどには長所と短所を考えた方がいいですし、慈悲喜捨の瞑想の場合にも、間違えたらどうなるか、正しくやったらどうなるかと、厳密に長所と短所を考えた方がいいのです。そのように長所と短所も考えなくてはならないときもあり、別に気にしなくてもいい場合もあります。普通は、長所と短所も考えた方が、人間が立派になりますね。 ものごとは善いとか悪いではなく、長所と短所を両方持っているのだと理解した方がいいのです。例えば怒りは、仏教では煩悩だと言って悪いと見ますが、それでもどうして人間が怒ることをやめないのかといえば、何か長所があるからでしょう。そうでなければ、すぐやめます。怒っている人は、怒りの長所だけを見ているのです。だから怒りを収めない、それだけのことです。 どんなものごとにも長所・短所の両方を見た方がいいです。例えば宗教的になるのはありがたいことでも、瞑想だけに徹
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1月4日読了時間: 2分
瞬間前の直接原因も確認
瞬間前の直接原因も確認 修行者はもろもろの現象の因果法則を発見するとき、直接原因に気づきます。一つの現象に関わるすべての原因を発見することはあり得ない話です。修行者の心に欲が起きたとしましょう。その欲の心所を引き起こした直接原因を見つけるのです。それで充分です。簡単に説明しましたが、大事なところです。修行者はどこまでも過去にさかのぼって原因の原因を探したりはしません。現象の直接原因を発見する能力さえあれば、充分です。修行中は、現れる現象をその都度その都度、確認します。そのとき、瞬間前の直接原因も確認します。これはpadaṭṭhāna の発見になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p89】
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1月3日読了時間: 1分
四つの観察④:padaṭṭhāna 直接原因
四つの観察④:padaṭṭhāna 直接原因 Padaṭṭhāna とは、現象の直接原因のことです。現象の因縁関係は複雑です。一個の原因で一個の結果が現れるわけではありません。しかし気になるのは直接原因です。 家が火事になったとしましょう。たくさんの原因がそろって家が燃えてしまったのですが、そのたくさんの原因はどうでもよいことです。例えば直接原因が、子供がライターで火遊びをしたことだったとしたら、子供が直接、家に火をつけたわけではなく、他のたくさんの原因がそろって火事になったのです。しかし、そのたくさんの原因はどうでもよいことです。直接原因を発見した私たちは、二度と同じ事故を起こさないように解決策を練ります。直接原因さえ知っておけば、答えは簡単です。それは、子供に火遊びをさせないということです。子供の力で着火できないライターを開発すればよいのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p89】
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1月2日読了時間: 1分
現象が我々の心に見せる姿
現象が我々の心に見せる姿 話が難しくなるので、例を出します。人が何かを指して「バナナ」と言います。瞬時に分かります。しかし味・香りなどを調べてはいません。熟しているか、青いままかも調べていません。ある品物を見た瞬間に、脳に何かの反応が起こります。その反応で「バナナ」だと結論づけるのです。Paccupaṭṭhāna とは、現象がこのように我々の心に見せる姿のことです。ですから日本語訳は「現状」なのです。一般的な日本語の「現状」という意味ではありません。 修行者はnāma とrūpa を区別して発見しなくてはいけません。各nāma とrūpa が自分を現す姿を持っています。修行者はそれで区別認識します。例えばnāma の一部であるlobha を観察してみましょう。Lobha とはものごとに執着させる欲のことですが、それはなかなか分かりません。しかしヴィパッサナー実践が進んだ修行者は、簡単に「これはlobha です」と確認することができます。「執着を引き起こすはたらきを持っているからlobha です」と思う前に、瞬時にlobha を確認しているのです。
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2026年1月1日読了時間: 2分
四つの観察③:paccupaṭṭhāna 現状
四つの観察③:paccupaṭṭhāna 現状 Paccupaṭṭhāna も喩えで説明すると分かりやすいです。ボールペンとは文字などを書くために使う道具です。ボールペンの形に作ったオモチャは、オモチャであってボールペンではありません。私たちはいとも簡単にボールペンを認識します。しかし一度たりとも、文字などを書ける道具だからこれはボールペンです、と決めたことはありません。ややこしいことを考えなくても、見ればすぐ分かるものです。このように、現象が私たちの認識に反映する姿のことをpaccupaṭṭhāna と言います。普通は誰でも、現象が持っているはたらきに気づかず、paccupaṭṭhāna で判断してしまいます。人を見れば、瞬時に男か女か分かります。実際に男としての、女としてのはたらきをしているか否かは関係ないのです。 言い換えてみると、「世に見せる姿」です。どんな現象も、何かの姿を見せています。Dhamma が心に見せる姿も観察しなくてはいけません。修行者は八十一のdhamma が持っているpaccupaṭṭhāna を発見するのです。各dha
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2025年12月31日読了時間: 1分
dhamma のrasa(はたらき)を発見してみる
dhamma のrasa(はたらき)を発見してみる ヴィパッサナー実践をする修行者は、現象が担うはたらきを観察します。はたらきがあるからこそ、世俗的に現象があると言えるのだと発見します。しかし世の中にあるすべての現象のはたらきを調べることは不可能です。これも科学的におこなわなくてはいけません。アビダンマでは、すべての現象を八十一のdhamma に分類しています。世俗的に見れば、無数の現象と無数のはたらきがあるかもしれませんが、真理の立場から観れば八十一個のdhamma があるのです。要するに八十一種類のはたらきがあるということです。Dhamma にあるはたらきを、rasa と言います。修行者はいずれかのdhamma のrasa(はたらき)を発見してみるのです。 例えば、lobha という心所があります。Nāma の一部です。何のはたらきを指してlobha と言うのでしょうか。怒り・嫉妬などの心所があります。何のはたらきを指して怒りや嫉妬と言うのでしょうか。膨らみ、という現象があります。物質の何のはたらきを指して、膨らみと言うのでしょうか。このよう
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2025年12月30日読了時間: 2分
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